溝口姓の由来
特別調査レポート

溝口姓の由来について

単なる個人的なメモですので無視して下さい

拝啓 父上様
 先日、富山市で学会があった際、1日時間を取り魚津市を訪れて参りました。
 昭和56年に発行された「加治屋郷土史」には、明治25年に溝口黒右衛門が那須野原 に移住し、今の溝口家の基になったと記されています。今回の魚津市訪問で、私はそれを 確証することができました。
 私はまず魚津市立図書館へ行き、そこで次のような一文を発見しました。

 その昔山麓に水尾氏が住居していたが。後年舛形村に移転し、姓を溝口と改めたと 伝えており、今は全村溝口姓を唱えている。
(魚津市史上巻 魚津市史編纂委員会 昭和43年発行)

 この文中にあるように、升方という集落には30戸くらい全てが今も溝口という姓で 他の姓は全くありませんでした。
 すなわち、この文に記されているように、溝口の姓はどうやら水尾氏から来ている ようです。この水尾氏というのは、室町時代にあったと魚津市史には記されています。
 室町初期から戦国時代にかけて、この地域は越中での政治・経済・交通の重要な地で、 松倉城を中心に、升方・水尾の2つの山城がこの地を守っていました。

図参照

 近くには金・銀山などがあり、それは「金山谷」というような地名として現存して います。松倉城は、上杉謙信によって1573年に攻め落とされたそうです。このことから、 その当時水尾城に住んでいた人が升方に移動し、溝口と名乗ったと思われます。 (なお、魚津市では全村が同一姓になったものに「溝口」の他にもう一つ「富川」と いうのがあり、この2つの姓は非常に特殊なケースだそうです。)
 その後、溝口氏は江戸時代にどうしていたかはわかりませんが、後述するように 江戸時代のものと思われる墓石が残っていることから察するに、存続していたものと 思われます。
 このような歴史を半信半疑で知った上で、私は実際今も溝口ばかり住んでいるという 升方を訪れました。この村は魚津市でもかなり山奥にあります。3時間に一本しかない バスで村の入口まで行き、さらにそこから少し歩きます。とにかく、溝口ばかりという ので、1番目の家を訪れ、私の名刺を渡し、この村のことを聞くことにしました。 日中ですので、村の若い人々は町に働きに出て年寄りばかりが田で働いていました。 この人々の話し方は、「そうけー」と語尾に「け」がつくこと、話すスピード・アクセント など、加治屋の話し方とほとんど同じでした。また、門の構え方、玄関の間取りなど、 家の作り方も加治屋のものと同じでした。
 一番目の溝口のお婆ちゃんに溝口の本家を教えてもらい、次にそこを訪れました。 そこで、黒右衛門の話をしたところ、そこのお婆ちゃんがたまたまその名前を記憶して おり、元・黒右衛門が住んでいたという屋敷に連れていってくれました。そこの屋敷には 別の溝口が住んでいました。そこで、私は「九良右衛門」の祭り太鼓に出会いました。 近くの神社にあったもので、九良右衛門が残していったものだそうです。その家の母さん が物置から取り出し、ほこりを雑巾で拭くと、そこには次のようなことが書かれていました。

富山県下新川郡上椿村溝口九良右衛門
明治十九年九月上旬求之

 すなわち、明治19年に九良右衛門がこの太鼓を買い入れたものと思います。この家の 母さんは、溝口本家の出身だそうで、幼い頃から那須野が原に移住した九良右衛門の話を 年寄りからよく聞かされていたそうです。九良右衛門の家は、升方村の一番奥にあり、 九良右衛門はこの村のお社・上椿神社の宮守をしていたそうです。またこの家には、 九良右衛門の残していったという神棚もそのまま残っており今も使われていました。
 ここで話を聞いた後、今度は上椿神社に連れていってもらいました。このお社は、加治屋 の八幡神社よりさらに小さいものでしたが、中に掲げられていたお札には全て、溝口・・、 溝口・・、と書かれていました。私はその一角に、

   金五円也 溝口長吉

という札を見つけました。この札が何年のものかは正確にはわかりませんでしたが、 汚れ具合から察するに、大正から昭和一桁のものと思います。ひょっとして、加治屋の 長吉さんがここに奉納していたのかも知れません。
 その社を少し山の方へ登ると、この村の墓がありました。当然ながら全て溝口と記 されています。この墓地の上の方にはかなり古い墓がありました。相当古いらしく字が 読み難かったのですが、その墓石には、

  天保 年
  一誉念至大姉位
     武右衛門

  文政八酉年
  専誉念爾居士位
     武右衛門

などと書かれていました。天保・文政と言えば江戸末期1820〜1840年頃にあたります。 この墓地が溝口家ばかりであることを考えますと、江戸時代にこの村に住んでいた 溝口氏の墓だろうと思われます。
 このことと、前述した水尾城の歴史を総合してみると、溝口一族というのは、少な くとも室町時代頃からこの地に住んでいたと考えられます。

 以上、私が魚津を訪れてわかったことです。初めは何の気なしに訪れた魚津で これ程のことがわかるとは思いませんでした。
 九良右衛門の父・祖父の名はわかりませんでしたが、しかし「溝口」が遠く700年 の昔からあったことは驚くべきことです。
 魚津市では現在、松倉・升方・水尾城跡を文化財として残そうとしているそうです。 そうなれば、もう少し水尾氏についての歴史もわかり、溝口一族のルーツをさらに 深く知ることができると思われます。
 いずれにしても、溝口九良右衛門がこの村から加治屋へ移ったことは疑いのない 事実と思います。近いうちに先祖の墓参りをしてみてはいかがでしょうか?

                      敬具

昭和60年10月19日
                    溝口 勝
    溝口 誠 様

追伸: このことは話として伝えるだけでなく、文章として残しておくことが、 溝口家の皆様の遺産となると思い、敢えて手紙にしました。コピーを送ります。 是非残しておいて下さい。


参考資料: 魚津市指定史跡 水尾城跡