天皇名 現代語訳 ページ リンク 原文 リンク
  宇治谷 孟『日本書紀(上)全現代語訳』(講談社学術文庫、1988)     『国史大系 日本書紀 前篇(新訂増補普及版)』(吉川弘文館、2007)    
・神代            
  ところがその神の頭に牛馬が生まれ、額の上に栗が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部に麥と大豆・小豆が生じていた。天熊人は、それをすべてとって持帰り奉った。すると天照大神は喜んでいわれるのに、「この物は人民が生きていくのに必要な食物だ」と。そこで栗・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とした。それで天の邑君を定められた。その稲種を天狭田と長田に植えた。その秋の垂穂は、八握りもある程しなって、大そう気持よかった。また大神は口の中に、蚕の繭をふくんで糸を抽くことが出来た。これからはじめて養蚕が出来るようになった。(p33-34) p33-34 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 是時保食~實已死矣。唯有其~之頂化爲牛馬。顱上生粟。眉上生蠒。眼中生稗。腹中生稻。陰生麥及大小豆。天熊・人悉取持去而奉進之。于時、天照大~喜之曰。是物者則顯見蒼生可食而活之也。乃以粟稗麥豆爲陸田種子。以稻爲水田種子。又因定天邑君。卽以其稻種始殖于天狹田及長田。其秋垂穎八握莫莫然。甚快也。又口裏含蠒。便得抽絲。自此始有養蠶之道焉。保食~。此云宇氣母知能加微。顯見蒼生。此云宇都・志枳阿鳥比等久佐。(原文p23-24) 原文p23-24 CiNii 図書 - 日本書紀
  何となれば、天照大神は天狭田・長田を神田としておられたが、素戔嗚尊は、春は種を重ね播きし、あるいは田の畔をこわしたりしたなどした。春はまだらな毛の馬を放して、田の中を荒らした。(p39-40) p39-40 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 何則天照大~。以天狹田。長田爲御田。時素戔嗚尊。春則重播種子。重播種子。此云璽枳磨枳。且毀其畔。毀。此云波那豆。秋則放天斑駒。使伏田中。(原文p31) 原文p31 CiNii 図書 - 日本書紀
  一書にいう。日神尊は、天垣田を神田としておられた。素戔嗚尊は春は田の溝をうめたり、畔をこわしたりした。また秋は穀物が実っているときに、縄を引き渡して、その田を犯した。(p42) p42 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 一書曰。日~尊以天垣田爲御田。時素戔嗚尊。春則塡渠毀畔。又秋穀已成。則冒以絡繩。(原文p34) 原文p34 CiNii 図書 - 日本書紀
  一書にいう。この後、日神の田は三カ所あり、名づけて天安田・天平田・天邑幷田という。これらは皆良田であった。長雨や旱魃にあっても、損なわれることがなかった。かの素戔嗚尊の田も三カ所あった。名づけて天樴田・天川依田・天口鋭田という。これらは皆やせ地であった。雨が降れば流れ、日照りになると旱魃になった。それで素戔嗚尊は、妬んで姉の田に害を与えた。春は用水路をこわしたり、溝をうめたり、畔をこわしたり、籾を重ね蒔きしたりした。秋は田に串をさしたり、馬を放って荒らしたりした。(p43) p43 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 一書曰。是後日~之田有三處焉。號曰天安田。天平田。天邑幷田。此皆良田。雖經霖旱無所損傷。其素戔嗚尊之田亦有三處。號曰天樴田。天川依田。天口鋭田。此皆磽地。雨則流之。旱則焦之。故素戔嗚尊妬害姉田。春則廢渠槽。及埋溝。毀畔。又重播種子。秋則捶籤。伏馬。(原文p36) 原文p36 CiNii 図書 - 日本書紀
・初代 – 神武天皇        
・2代 – 綏靖天皇        
・3代 – 安寧天皇        
・4代 – 懿徳天皇        
・5代 – 孝昭天皇        
・6代 – 孝安天皇        
・7代 – 孝霊天皇        
・8代 – 孝元天皇        
・9代 – 開化天皇        
・10代 – 崇神天皇        
  「農は国の本である。人民のたのみとして生きるところである。今、河内の狭山の田圃は水が少い。それでその国の農民は農を怠っている。そこで池や溝を掘って、民のなりわいをひろめよう」と。(p133) p133 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 「農天下之大本也。民所恃以生也。今河內狹山埴田水少。是以。其國百姓怠於農事。其多開池溝。以寛民業。」(原文p171) 原文p171 CiNii 図書 - 日本書紀
  冬十月に依網池を造った。十一月、苅坂池・反折池を造った。(p133) p133 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 冬十月。造依網池。十一月。作苅坂池。反折池。一云、天皇居桑間宮、造是三池也。(原文p171) 原文p171 CiNii 図書 - 日本書紀
・11代 – 垂仁天皇        
  この年、諸国に令して池や溝をたくさん開かせた。その数八百あまり。農を大切な仕事とし、これによって百姓は富み豊かになり、天下太平であった。(p147) p147 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 是歳。令諸国多開池溝數八百之。以農為事。因是百姓富寛。天下太平也。(原文p189) 原文p189 CiNii 図書 - 日本書紀
  三十五年秋九月、五十瓊敷命に遣わして、高石池、茅渟池を造らせた。冬十月に倭の狭城池と迹見池を造った。(p147) p147 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 卅五年秋九月。遣五十瓊敷命于河內國。作高石池。茅渟池。冬十月。作倭狹城池。及迹見池。(原文p189) 原文p189 CiNii 図書 - 日本書紀
・12代 – 景行天皇        
  五十七年秋九月、坂手池を造った。そして竹をその堤の上に植えた(p175) p175 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 五十七年秋九月。造坂手池。卽竹蒔其堤上。(原文p224) 原文p224 CiNii 図書 - 日本書紀
・13代 – 成務天皇        
・14代 – 仲哀天皇        
  魚池・鳥池を作って(p182) p182 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 忽作魚沼。鳥池。(原文p235) 原文p235 CiNii 図書 - 日本書紀
・14代皇后 – 神功皇后        
  那珂川の水を引いて、神田に入れようと思われ、溝を掘られた。迹驚岡に及んで、大岩が塞がっており、溝を通すことができなかった。皇后は竹内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせられ溝を通すことを求められた。そのとき急に雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水を通じさせた。時の人はそれを名づけて裂田溝といった。(p188) p188 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 爰定~田而佃之。時引儺河水欲潤~田而掘溝。及于迹驚岡。大磐塞之不得穿溝。皇后召武內宿禰。捧劒鏡令禱祈~祗。而求通溝。則當時。雷電霹靂。蹴裂其磐。令通水。故時人號其溝曰裂田溝也。(原文p244) 原文p244 CiNii 図書 - 日本書紀
・15代 – 応神天皇        
  竹内宿禰に命ぜられ、諸々の韓人らを率いて池を造らせられた。(p213) p213 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 時命武內宿禰。領諸韓人等作池。因以名池號韓人池。(原文p272) 原文p272 CiNii 図書 - 日本書紀
  十一年冬十月、剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を造った。(p214) p214 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 十一年冬十月。作劒池。輕池。鹿垣池。厩坂池。(原文p274) 原文p274 CiNii 図書 - 日本書紀
  ミツタマルヨサミノイケニ(p215) p215 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 瀰豆多摩蘆豫佐瀰能伊戒珥(原文p274) 原文p274 CiNii 図書 - 日本書紀
・16代 – 仁徳天皇        
  十一年夏四月十七日、群臣に詔して、「いまこの国を眺めると、土地は広いが田圃は少い。また河の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上り、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。群臣はこれをよく見て、溢れた水は海に通じさせ、逆流は防いで田や家を侵さないようにせよ」と言われた。(p233) p233 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 十一年夏四月戊寅朔甲午。詔群臣曰。今朕視是國者。郊澤曠遠。而田圃少乏。且河水横逝以流末不駃。聊逢霖雨。海潮逆上而巷里乘船。道路亦埿。故群臣共視之。決横源而通海。塞逆流以全田宅。(原文p298) 原文p298 CiNii 図書 - 日本書紀
  冬十月、宮野北部の野を掘って、南の水を導いて、西の海に入れた。その水を名づけて堀江といった。また北の河の塵芥を防ぐために、茨田の堤を築いた。このとき築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二カ所あった。天皇が夢をみられ、神が現れて教えていわれるのに、「武蔵の人強頸と河内の人茨田連衫子の二人を、河伯に人身御供した、強頸は泣き悲しんで水に入られた。その堤は完成した。衫子だけは丸いヒサゴ二箇をとって、防ぎにくい河に臨み、その中に神意を伺う占いをして、「河神が祟るので、私が生にえにされることになった。自分を必ず得たいのなら、このヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ、そうすれば自分も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もしヒサゴを沈められないなら、偽りの神と思うから、無駄にわが身を亡ぼすことはない」といった。つむじ風が俄かに起こって、ヒサゴを水中に引きこもうとしたが、ヒサゴは波の上にころがるばかりで沈まなかった。速い流れの水に浮き躍りしながら、遠く流れ去った。衫子は死ななかったが、その堤は完成した。これは衫子の才智でその身が助かったのである。時の人はその二カ所を名づけて、それぞれ強頸の断間・衫子の断間といった。この年、新羅人の朝貢があった。そしてこの工事に使われた。(p233-234) p233-234 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 冬十月。掘宮北之郊。引南水以入西海。因以號其水曰堀江。又將防北河之澇。以築茨田堤。是時有兩處之築而乃壞之難塞。時天皇夢。有~誨之曰。武藏人强頸。河內人茨田連衫子衫子。二人以祭於河伯。必獲塞。則覓二人而得之。因以禱于河~。爰强頸泣悲之。沒水而死。乃其堤成焉。唯衫子取全匏兩箇。臨于難塞水。乃取兩箇匏投於水中。請之曰。河~崇之。以吾爲幣。是以今吾來也。必欲得我者。沉是匏而不令泛。則吾知眞~。親入水中。若不得沈匏者。自知偽~。何徒亡吾身。於是飄風忽起。引匏沒水。匏轉浪上而不沈。則潝々汎以遠流。是以衫子雖不死。而其堤且成也。是因衫子之幹。其身非亡耳。故時人號其兩處曰强頸斷間。衫子斷間也。是歲。新羅人朝貢。則勞於是役。(原文p:298-299) 原文p:298-299 CiNii 図書 - 日本書紀
  冬十月、山城の栗隈県に、大溝を掘って田に水を引いた。これによってその土地の人々は毎年豊かになった。(p234) p234 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 冬十月。掘大溝於山背栗隈縣以潤田。是以其百姓毎年豐之。(原文p300) 原文p300 CiNii 図書 - 日本書紀
  冬十月和珥池を造った。(p234) p234 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 冬十月。造和珥池。(原文p300) 原文p300 CiNii 図書 - 日本書紀
  横野堤を築いた。(p234) p234 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 築横野堤。(原文p300) 原文p300 CiNii 図書 - 日本書紀
  大溝を感玖に掘った。石河の水を引いて、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦など4か所の原をうるおし、四万頃あまりの田が得られた(p234-235) p234-235 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 又掘大溝於感玖。乃引石河水而潤上鈴鹿。下鈴鹿。上豊浦。下豊浦。四處郊原。以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓寛饒之無凶年之患。(原文p300) 原文p300 CiNii 図書 - 日本書紀
  五十年春三月五日、河内の人が申し上げていうのに、「茨田の堤に雁が子を産みました」と。(p246) p246 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 河內人奏言。於茨田堤鴈産之。(原文p311) 原文p311 CiNii 図書 - 日本書紀
・17代 – 履中天皇        
  十一月、磐余の池を作った。(p257) p257 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 十一月。作磐余池。(原文p327) 原文p327 CiNii 図書 - 日本書紀
  天皇は、両股船を磐余の市磯池にうかべられた。(p257) p257 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 天皇泛兩枝船于磐余市磯池。(原文p327) 原文p327 CiNii 図書 - 日本書紀
  冬十月、石上の用水路を掘った(p258) p258 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 冬十月。堀石上溝。(原文p328) 原文p328 CiNii 図書 - 日本書紀
・18代 – 反正天皇        
・19代 – 允恭天皇        
  アシヒキノ、ヤマタヲシタヒヲワシセ…(p273) p273 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 斯哆媚烏和之勢。(原文p348) 原文p348 CiNii 図書 - 日本書紀
・20代 – 安康天皇        
・21代 – 雄略天皇        
・22代 – 清寧天皇        
・23代 – 顯宗天皇        
  自分の体を溝に投げ入れられる…(p319) p319 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 四體溝隍(原文p400) 原文p400 CiNii 図書 - 日本書紀
・24代 – 仁賢天皇        
      『国史大系 日本書紀 後篇(新訂増補普及版)』(吉川弘文館、2007)    
・25代 – 武烈天皇          
  人を池の堤の樋の中に入らせて、外に流れ出るのを三つ刃の矛でさし殺して喜んだ(p343) p343 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 使人伏入塘楲(原文p6) 原文p6 CiNii 図書 - 日本書紀
  池を堀り、苑を造って鳥やけものを満たした。(p344) p344 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 穿池起苑。以盛稟禽獣。(原文p7) 原文p7 CiNii 図書 - 日本書紀
・26代 – 継体天皇          
  イハレノイケノミナシタフウヲモ…(p355) p355 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 以簸例能伊聞能。美那矢駄府。紆嗚謨。(原文p20) 原文p20 CiNii 図書 - 日本書紀
・27代 – 安閑天皇          
  そこで勅使を遣わして良田を探させた。勅使は命をうけて大河内直味張に、「いまお前は肥えた良田を差し出しなさい」といった。味張は急に惜しくなって、勅使をあざむいて、「この田はひでりになると水を引くことが難しくて、溢水があると水浸しになります。苦労することはなはだ多く、収穫は大変少いのです」といった。(p371) p371 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 逎差勅使簡擇良田。勅使奉勅宣於大河內直味張更名K梭曰。今汝宜奉進膏腴雌雉田。味張忽然悋惜。欺誑勅使曰。此田者。天旱難漑。水潦易浸。費功極多。收獲甚少。(原文p39) 原文p39 CiNii 図書 - 日本書紀
  天皇は金村を遣わし、良田を県主の飯粒に問われた。(p372) p372 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 天皇使大伴大連、問良田於縣主飯粒。(原文p40) 原文p40 CiNii 図書 - 日本書紀
  別に河内の狭井田六町を、大伴連に贈った。(p373) p373 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 別以狹井田六町賂大伴大連。(原文p41) 原文p41 CiNii 図書 - 日本書紀
・28代 – 宣化天皇          
  宇治谷 孟『日本書紀(下)全現代語訳』(講談社学術文庫、1988)          
・29代 – 欽明天皇            
・30代 – 敏達天皇            
・31代 – 用明天皇            
・32代 – 崇峻天皇            
・33代 – 推古天皇            
  この年の冬、倭国に高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を造った。山城国栗隈に大溝を堀り、河内国に戸苅池・依網池を造った。(p99) p99 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 是歲冬。於倭國作高市池。藤原池。肩岡池。菅原池。山背國掘大溝於栗隈。且河內國作戸苅池。依網池。(原文p148) 原文p148 CiNii 図書 - 日本書紀
  夜明け前に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。(p104) p102 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 集于藤原池上。以會明乃往之。(原文p153) 原文p153 CiNii 図書 - 日本書紀
  (曇徴)水力を用いる臼をも造った。水臼を造ったのはこれが最初であろう。(p102) p102 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 幷造碾磑。蓋造碾磑、始于是時歟。(原文p152) 原文p152 CiNii 図書 - 日本書紀
  二十一年冬十一月、掖上池、畝傍池、和珥池を造った。また難波から都に至る大路を設けた。(p106) p117 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 廿一年冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。(原文p156) 原文p156 CiNii 図書 - 日本書紀
  (蘇我馬子)その庭の中に小さな池を堀り、池の中に小さな嶋を築いた。(p117) p117 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 庭中開小池、興小嶋於池中(原文p166) 原文p166 CiNii 図書 - 日本書紀
・34代 – 舒明天皇            
  変わった蓮が剣池に生えている。一本の茎に二つの花(p130) p130 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 是月瑞蓮生於劔池一茎二花。(原文p182) 原文p182 CiNii 図書 - 日本書紀
・35代 – 皇極天皇            
  茨田池の水がひどく腐って、小さい虫が水面を覆った。その虫は口が黒く体は白かった。八月十五日、茨田池の水は変って藍の汁のような色だった。死んだ虫が水の表面を覆った。水路の水は凝りかたまり、厚さ三、四寸ばかりで、大小の魚の腐った様子は、夏の時期に腐れ死んだのと同じようで、食用とはならなかった。(p142) p142 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 是月。茨田池水大臰。小虫覆水。其虫口黒而身白。八月戊申朔壬戌。茨田池水變如藍汁。死虫覆水。溝瀆之流亦復凝結。厚三四寸。大小魚臰如夏爛死。由是不中喫焉。(原文p198) 原文p198 CiNii 図書 - 日本書紀
  この月(翌9月)、茨田池の水はようやく白い色になって臭い匂いもしなくなった。(p143) p143 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 茨田池水漸變成白色。亦無臰氣。(原文p198) 原文p198 CiNii 図書 - 日本書紀
  この月(翌10月)茨田の水は澄んでもとに返った。(p144) p144 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 是月茨田池水還C(原文p199) 原文p199 CiNii 図書 - 日本書紀
  六日、剣池の蓮の中に、一本の茎に二つの花房をつけたのが見つかった。(p150) p150 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 戊申。於劒池蓮中有一莖二𦹛者。(原文p205) 原文p205 CiNii 図書 - 日本書紀
  池を掘ってとりでとし…(p152) p152 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 穿池為城。(原文p207) 原文p207 CiNii 図書 - 日本書紀
・36代 – 孝徳天皇            
  工人の大山位倭漢直荒田井比羅夫は、溝を掘るのに誤って難波に引き、そしてまた改めて掘ったために、人民を疲れさせた。そこで上表して切に諫める者があった。天皇は詔して、「軽率に比羅夫の間違った説をきき、むだな溝を掘ったのは自分の過ちであった」といわれ、直ちに役を中止された。(p181) p181 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 工人大山位倭漢直荒田井比羅夫。誤穿溝瀆控引難波。而改穿疲労百姓。爰有上疏切諫者。天皇詔曰。妄聽比羅夫所詐。而空穿瀆。朕之過也。(原文p241) 原文p241 CiNii 図書 - 日本書紀
  八月五日、東国の国司を召された。国司らに詔して、「天つ神の命ぜられるままに、今はじめて日本国内のすべての国々を治めようと思う。およそ国家の所有する公民や、大小の豪族の支配する人々について、汝らが任国に赴いてみな戸籍をつくり、田畑の大きさを調べよ。それ以外の園池や土地や用水の利得は百姓が共に受けるようにせよ。(p161) p161 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天~之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。與百姓倶。(原文p219) 原文p219 CiNii 図書 - 日本書紀
  今寺司と寺主とを任命する。諸寺を巡って僧尼、奴婢、田地の実状を調べて、ことごとく明らかにし報告せよ(p163-164) p163-164 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 令拜寺司等與寺主。巡行諸寺。驗僧尼。奴婢。田畝之實。而盡顯奏。(原文p222) 原文p222 CiNii 図書 - 日本書紀
  また国・県の山海・林野・池田を割きとって、自分の財産だとして争い戦うことが多かった。数万頃の田を、一人で所有するものがある一方、ある人は針先程の地もない人もある。…今人民は貧しい。ところが勢力ある者は水陸を分割して私有地とし、人民に貸し与えて年々地代をとる。今後そのようなことを禁ずる。みだりに主となって力の弱い者を併呑してはいけない」といわれた。人民は大いに喜んだ。(p165) p165 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 又割國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者兼幷數萬頃田。或者全無容針少地。…方今百姓猶乏。而有勢者分割水陸以爲私地。賣與百姓。年索其價。從今以後不得賣地。勿妄作主兼幷劣弱。百姓大ス。(原文p223) 原文p223 CiNii 図書 - 日本書紀
  その第三。初めて戸籍・計帳・班田収授の法をつくる。五十戸を里とし、里ごとに里長を一人置く。戸口を管理し農桑を割当て、法に違反する者を取り締まり、賦役を督励することをつかさどれ。もし山や谷が険しく、人稀なところでは、ついでの良い所に設けよ。田は長さ三十歩、広さ十二歩を段とする。十段を町とする。段ごとに租稲二束二把、一町につき祖稲二十二束とする。(p167) p167 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 其三曰。初造戸籍。計帳。班田收授之法。凡五十戸爲里。毎里置長一人。掌按檢戸口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅步。廣十二步爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。(原文p225) 原文p225 CiNii 図書 - 日本書紀
  また、まだ帳簿に載っていない寺の田や山を拾い出せ」といわれた。(p173-174) p173-174 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 又於脱籍寺。入田與山。(原文p232) 原文p232 CiNii 図書 - 日本書紀
・37代 – 斉明天皇            
  天皇は工事を好まれ、水工に溝を掘らせ、香久山の西から石上山にまで及んだ。舟二百隻に石上山の石を積み、流れに従って下り、宮の東の山に石を積み垣とした。時の人は謗って、「たわむれ心の溝工事。むだな人夫を三万余。垣造りのむだ七万余。宮材は腐り、山頂は潰れた」といった。また謗って、「石の山岡をつくる。つくった端からこわれるだろう。」と。(p199) p199 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 時好興事。廼使水工穿渠。自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石。順流控引於宮東山。累石爲垣。時人謗曰。狂心渠。損費功夫三萬餘矣。費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣。山椒埋矣。又謗曰。作石山丘隨作自破。(原文p263) 原文p263 CiNii 図書 - 日本書紀
  天皇の治世に三つの失敗があります。…長い用水路を掘って、人夫にたくさんの食料を費やしたこと(p204) p204 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 天皇所治政事有三失矣。…長穿渠水損費公糧。二也。(原文p267) 原文p267 CiNii 図書 - 日本書紀
  また皇太子が初めて漏刻をつくり、人民に時を知らせるようにされた。(p211) p211 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 又。皇太子初造漏剋。使民知時。(原文p273) 原文p273 CiNii 図書 - 日本書紀
  石上池あたりに須弥山を造った(p211) p211 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 又於石上池邊作須彌山。(原文p273) 原文p273 CiNii 図書 - 日本書紀
・38代 – 天智天皇            
  (百済の土地について)東南は貯池の堤があり、一面の田圃があり、水利もよく…(p222) p222 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 東南據深埿巨堰之防。繚以周田。决渠降雨。(原文p248) 原文p248 CiNii 図書 - 日本書紀
  筑紫に大堤を築いて水を貯えた。これを水城と名づけた。(p226) p226 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 又於筑紫築大堤貯水。名曰水城。(原文p289) 原文p289 CiNii 図書 - 日本書紀
  水碓を造って鉄を鋳た(p236) p236 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 是歳。造水碓而冶鐵。(原文p298) 原文p298 CiNii 図書 - 日本書紀
  水はかりをたてまつった(p237) p237 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 獻水臬。(原文p299) 原文p299 CiNii 図書 - 日本書紀
  漏刻を新しい台の上におき、はじめて鐘・鼓を打って時刻を知らせた。この漏刻は天皇がまだ皇太子であった時に、始めて自分でお造りになったものであるという。云々。(p237) p237 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 漏剋於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏剋。此漏剋者天皇爲皇太子時始親所製造也、云々。(原文p299) 原文p299 CiNii 図書 - 日本書紀
・39代 – 弘文天皇            
・40代 – 天武天皇            
  葦池(倭国の地名として出てくる)(p257) p257 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 葦池(原文p323) 原文p323 CiNii 図書 - 日本書紀
  馬は深田にはまって進むことができなかった。(倭国の様子)(p258) p258 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 馬堕埿田不能進行。(原文p324) 原文p324 CiNii 図書 - 日本書紀
  嶋宮の池(農業用の池ではない)(p288) p288 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 嶋宮池(原文p359) 原文p359 CiNii 図書 - 日本書紀
  十四日、人定に大地震があった。…山は崩れ河は溢れた。…伊予の道後温泉も、埋もれて湯が出なくなった。土佐国では田畑五十余万頃がうずまって海となった。(p299) p299 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 逮于人定大地震。…即山崩河大涌。…伊豫湯泉沒而不出。土左國田菀五十餘萬頃。沒爲海。(原文p373) 原文p373 CiNii 図書 - 日本書紀
・41代 – 持統天皇            
  天皇は腋上池の堤におでましになり(p324) p324 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 天皇幸于腋上陂。(原文p404) 原文p404 CiNii 図書 - 日本書紀
  京師と諸国の四十カ所に水害があった(p330) p330 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 京師及郡國卌雨水。(原文p410) 原文p410 CiNii 図書 - 日本書紀
  大水が出た…官稲を借りることができるようにしたり、山林池沢での猟を許可されたりした。(p334) p334 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 大水。…令得漁採山林池澤。(原文p415) 原文p415 CiNii 図書 - 日本書紀
  七年に醴泉が、近江国益須郡の都賀山に湧出した。種々の病人が益須寺に宿って治療しなおったものが多い。それ故水田四町・布六十端を寺に施入し…(p340) p340 CiNii 図書 - 日本書紀 : 全現代語訳 醴泉湧於近江國u須郡都賀山。諸疾病停宿u須寺而療差者衆。故入水田四町。布六十端。(原文p422) 原文p422 CiNii 図書 - 日本書紀
  宇治谷 孟『続日本紀(上)全現代語訳』(講談社学術文庫、1992)     『国史大系 續日本紀 前篇(新訂増補普及版)』(吉川弘文館、1974)    
・42代 – 文武天皇            
  (道照和尚)後に和尚は天下を周遊して、路の傍に井戸を掘り、各地の渡し場の船を造ったり、橋を架けたりした。山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。和尚の周遊はおよそ十余年に及んだ(p29) p29 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 於後周遊天下。路傍穿井。諸津済處。儲船造橋。乃山背国宇治橋。和尚之所創造者也。和尚周遊凡十有餘載。(原文p6) 原文p6 CiNii 図書 - 續日本紀
  大風と高潮のために、水田や園地が被害を受けました。(p45) p45 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 大風潮漲。田園損傷。(原文p12) 原文p12 CiNii 図書 - 續日本紀
  十七カ国に蝗の発生があり、大風が吹き人民の家屋が損壊し、秋の収穫に被害が出た。(p45) p45 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 十七國蝗。大風壞百姓廬舍損秋稼。(原文p13) 原文p13 CiNii 図書 - 續日本紀
・43代 – 元明天皇        
  親王以下および勢力のある家は、多くの山家を占有して、人民の仕事を妨げている。今後はきびしく禁止せよ。ただし空地を開墾する者がある場合は、国司を通じて申請し、その後に太政官の処分を聞け。(p127) p127 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 親王巳下及豪强之家。多占山家。防百姓業。自今以來。嚴加禁斷。但有應墾開空閑地者。√S國司。然後聽官處分。(原文p47) 原文p47 CiNii 図書 - 續日本紀
  (諸国の役民が郷里に還る日)多く帰路で飢えて、溝や谷に転落(p127) p127 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 多饉道路。轉塡溝壑。(原文p47) 原文p47 CiNii 図書 - 續日本紀
  郡司の官にありながら、欲が深くて貪り、事を処理するのに不公平で、職分に欠けたところがあり、公務がよく行われず、人民をおかしむさぼり、公の施しごとを悪用して、ほしいままに狡猾な行為をし、それで名声や官位を求め、田畑を開墾せず、祖・調を減らし欠けさせたり、戸籍・計帳に虚偽が多く、壮丁が実現せず、逃亡者が土地を離れて、田つくりを放棄する(p130) p130 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 居官貧濁。処事不平。職用既闕。公務不挙。侵没百姓。請託公施。肆行奸猾。以求名官。田疇不開。減闕租調。籍帳多虚。口丁無実。逋逃在境。畋遊無度。(原文p48) 原文p48 CiNii 図書 - 續日本紀
  諸寺の田記に誤りがあるので、あらためて規定を改正し、一通は所司に保管し、一通は諸国の国衙に頒ち置くことにした。(p139) p139 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 因諸寺田記錯誤。更爲改正。一通藏所司。一通頒諸國。(原文p52) 原文p52 CiNii 図書 - 續日本紀
  諸寺が田や野地を占有している数は、限りなく多い。今後は格の規定よりも超えているものは、みな返還させる。(p144) p144 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 諸寺多占田野。其數無限。℃ゥ今以後。数過格者。皆還収之。(原文p53) 原文p53 CiNii 図書 - 續日本紀
  そこで国司・郡司で、人民の生業を督励し、人々の資産を豊かに足りるようにした者を上等とし、督励を加えるけれども、衣食が足るに至らない者を中等とし、田畑が荒廃し、人民が飢えこごえて、死亡するに至る者を下等とせよ。そして十人以上も死亡するようであれば、その国司は解任せよ。また四民にはそれぞれ生業がある。いまその人々が職を失って流散するのは、これまた国司郡司の教え導くのに、適当な方法をとらないからで甚だ不当である。このような者があったら必ず厳重に処罰して見せしめとせよ。これからは巡察使を派遣し、天下を手分けして廻らせ、人民の生活ぶりを観察させる。あつい仁徳の政治を行うように勤め、詩経のことばにある周行の実現を庶うようにせよ。(p159) p159 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 ¢エ勸催產業。資產豊足者爲上等。雖加催勸衣食短乏者爲中等。田疇荒廢。百姓飢寒。回致死亡者爲下等。十人以上。則解見任。又四民之徒。各有其業。今失職流散。此亦国郡司教導無方。甚無謂也。有如此類。必加顕戮。自今以後。当遣巡察使。分行天下。観省風俗。宜勤敦徳政。庶彼周行。(原文p59) 原文p59 CiNii 図書 - 續日本紀
  遠江国に地震があった。山が崩れて麁玉川がふさがれ、水が流れず数日後に決潰して、敷智・長下・石田の三郡の民家百七十余区劃が水没し、あわせて水田の苗も損害を受けた。(p161) p161 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遠江國地震。山崩壅麁玉河。水爲之不流。經數十日。潰没、敷智。長下。石田三郡民家百七十餘區。并損苗。(原文p59) 原文p59 CiNii 図書 - 續日本紀
・44代 – 元正天皇        
  今諸國の人民は生業の技術をきわめておらず、ただ湿地で稲を作ることにのみ精を出し、陸田の有利なことを知らない。だから大水や日照りにあえば、貯えの穀物もなく、秋の取り入れができないと多く飢饉にみまわれる。これはただ人民の怠けによるだけでなく、国司が教え導かないことに因る。なすべきことは人民に命じて、麥と稲とを共に植えさせ、成年男子一人ごとに二段の割合となるようにはかれ。およそ栗というものは、永く貯蔵しても腐らず、いろいろの穀物の中でもすぐれたるものである。このことを広く天下に告げ、力をつくして耕作させ、適期を失しないようにさせよ。(p168) p168 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 今諸國百姓未盡產術。唯趣水澤之種。不知陸田之利。或遭澇旱。更無餘穀。秋嫁若罷。多致饑饉。此乃非唯百姓懈懶。固由國司不存ヘ導。@゚佰姓兼󠄁種麥禾。男夫一人二段。凡粟之爲物。支久不敗於諸穀中。㝡是燕D。∴ネ此狀遍告天下。盡力耕種。莫失時候。(原文p63) 原文p63 CiNii 図書 - 續日本紀
  人民が水田をつくり食糧をふやすことを許した。(p169-170) p169-170 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 聽佰姓佃食之。(原文p64) 原文p64 CiNii 図書 - 續日本紀
  (国司・郡司らが)それで管内の豊凶や農桑の増益の状態を言上せよ。(p171) p171 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 仍錄部内豊儉農桑暾u言上。(原文p65) 原文p65 CiNii 図書 - 續日本紀
  今聞くところによると、諸国の寺家は多く法に従わず…寺田を賜るように訴え、(p172) p172 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 今聞。諸國寺家。多不如法。…即訴田畝。(原文p65) 原文p65 CiNii 図書 - 續日本紀
  また聞くところでは…檀越の子孫が田畑をすべて支配し…今後はそのようなことを堅く禁じ、寺の所有の財物や田畑は国師や衆僧と、国司・檀越らが立ち会って検査し、はっきりと記録して、それらを使用するには、共にその可否を判定して支出するべきである。(p173) p173 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 檀越子孫。惣攝田畝。・・自今以後。嚴加禁斷。其所有財物田園。並湏國師衆僧及國司檀越相對撿挍。分明案記。充用之日。共判󠄁出付。(原文p65) 原文p65 CiNii 図書 - 續日本紀
  寺の所有の田園について、専ら利益をひとり占めしようとするためと思われます。(p173) p173 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 所有田園。自欲専利。(原文p65) 原文p65 CiNii 図書 - 續日本紀
  (筑後守・正五位下の道君首名)人民には生業を教え勧め、箇条書きの規定をつくり、耕地には稲のほかに果物や野菜を植えさせた。…また堤と池を構築し灌漑を広めた。肥後の味生池および筑後の処々の堤池は、みな首名の設けたものである。これによって人々はその利益を蒙り、今もその恩をうけているのは、みな首名の功績である。…首名が死んでからは、人民たちはこれを神として祠った。(p192-193) p192-193 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 勸人生業。爲制條ヘ耕營。頃畝樹果菜。・・又興築陂池。以廣灌漑。肥後味生池。及筑後住々陂池皆是也。由是。人蒙其利于今溫給。・・或以爲稱首。及卒百姓祠之。(原文p73-74) 原文p73-74 CiNii 図書 - 續日本紀
  洪水と旱魃が二つともおこり、庶民は流離して、秋の収穫は不作で、国中が騒然となり、すべての人が苦労した。(p223) p223 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 水旱並臻。平民流沒。秋稼不登。國家騷然。萬姓苦勞。(原文p85) 原文p85 CiNii 図書 - 續日本紀
  ところが近頃気候が不順で旱害と水害がおこり、農耕や養蚕に被害を与え。(p224) p224 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 頃者旱澇不調。農桑有損。(原文p85) 原文p85 CiNii 図書 - 續日本紀
  また食物は人民にとって最も大切なものであります。それ故、食に備えるため時宜にかなった方策を設けることは、国を治めるのに重要な政策です。そこで次のように請願します。農業を奨励して穀を蓄え、水害や旱魃に備えますが、それについては所司に委任して人夫を徴集し、肥沃な土地の開墾をして、良田百万町をふやしたいと思います。人夫の賦役は十日を限度とし、食糧を支給し、使用する農具は官物を貸し与え、秋の収穫のあとで、それらの道具を農民たちに造り備えさせます。もし国司・郡司で、偽ってこの仕事を遅らせ、敢て開墾しないものがあれば、何れもすぐさま解任し、恩赦のある場合でも許す範囲に入れません。もし国内の百姓で、荒野や未耕地に労力を加えて、雑穀三千石以上を収穫するものがあれば、勲六等を賜い、一千石以上のときは、終身租税負担を免除したいと思います。(p239-240) p239-240 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 又食之爲本。是民所天。隨時設策。治國要政。望請。勸農積穀。以水旱。仍委所司。差發人夫。開墾膏腴之地兩良田一百万町。其限役十日。便給粮食。所湏調度。官物借之。秋收而後。卽令造。若有國郡司詐作逗留。不肯開墾。並卽解却。雖經恩赦。不在免限。如部內百姓。荒野閑地。能加功力。收穫雜穀三千石巳上。賜勳六等。一千石以上終身勿事。(原文p93) 原文p93 CiNii 図書 - 續日本紀
  今年の夏は雨が降らず、稲の苗は実らなかった。そこで全国の国司に命じて、人民に勧め割りあてて晩稲・そば・大麦・小麦を植えさせ…(p244) p244 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 是以今夏無雨。苗稼不登。宜令天下國司勸課百姓。種樹晚禾蕎麥及大小麥。(原文p94) 原文p94 CiNii 図書 - 續日本紀
  今年は雨が少く稲が実っていないという。(p244) p244 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 今年少雨。禾稻不熟。(原文p94) 原文p94 CiNii 図書 - 續日本紀
  初めて矢田池を築いた。(p248) p248 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 始築矢田池。(原文p96) 原文p96 CiNii 図書 - 續日本紀
  近頃、人民の人口が次第に増加し、田や池が不足しております。どうか天下の人民に田地の開墾を勧め割当てたいと思います。その場合新たに溝や池をつくり、田地を開墾した者があれば、多少にかかわらず、三代目までのその所有を許し、もし旧い溝や池を手入れして、使えるようにした場合は、本人の代にのみ所有を許すことにしたいと思います。奏上を可として許可された。(p249) p249 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 頃者。百姓漸多。田地窄狹。望請。勸課天下。開闢田疇。其有新造溝池。營開墾者。不限多少。給傅三世。若遂舊溝池。給其一身。奏可之。(原文p96) 原文p96 CiNii 図書 - 續日本紀
・45代 – 聖武天皇        
  伊勢・尾張二国の田を、志摩国の人民に口分田として班給した。(p269) p269 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 以伊勢尾張二國田。始班給志摩國百姓口分。(原文p103) 原文p103 CiNii 図書 - 續日本紀
  尾張国の民あわせて二千百四十二戸の収穫が損なわれ飢饉となった。遠江国の五郡が水害を被った。両国に三年を限度として民に無利息の貸出しを行なわせた。(p277) p277 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 尾張國民惣二千二百卌二戶。稼傷飢饉。遠江國五郡被水害。並限三年。令加賑貮。(原文p107) 原文p107 CiNii 図書 - 續日本紀
  時は春の農事にあたり、人々は田畑に出て働いている。(p280) p280 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 時臨東作。人赴田疇。(原文p109) 原文p109 CiNii 図書 - 續日本紀
  楯波池からつむじ風が俄かに吹き寄せ…(p281) p281 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 從楯波池。飄風忽來。(原文p110) 原文p110 CiNii 図書 - 續日本紀
  天皇は鳥池の堤に出御し…(p287) p287 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 天皇御鳥池塘(原文p112) 原文p112 CiNii 図書 - 續日本紀
  また諸国の国司たちが、任期中に水田を開墾した場合は、養老七年以降は、実際に労力を加えて得たものと、書いとったものとを論せず、任期終了時に皆収公して、その土地の人民に班給します。もしまだ転任できない者がおれば、従来通り耕作することを許します。その他の開墾については全く養老七年の格に従います。(p310-311) p310-311 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 又ゥ國前任之日。開墾水田者。從養老七年以來。不論本加功人轉買得家。皆咸還收。便給土人。若有其身未得遷替者。依常聽佃。自餘開墾者一依養老七年格。(原文p121) 原文p121 CiNii 図書 - 續日本紀
  旱害のため畿内四カ国の田畑の状況を巡察させた。(p316) p316 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 緣旱令撿校四畿內水田陸田。(原文p123) 原文p123 CiNii 図書 - 續日本紀
  この頃日照りが続き穀物の不作が予想される。そこで使者を畿内四カ国に派遣して、人民の農作の状況を検察させよ。(p316) p316 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 此者亢陽稍盛。思量年穀不登。′ュ使者四畿內。令撿百姓產業矣。(原文p123) 原文p123 CiNii 図書 - 續日本紀
  この夏日照りで人々は田作りをしていない。(p328) p328 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 是夏陽旱。百姓不佃。(原文p128) 原文p128 CiNii 図書 - 續日本紀
  春より日照りがはげしく、夏まで雨が降らなかった。すべての川は水が減り五穀は痩せた。(p329) p329 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 從春亢旱。至夏不雨。百川減水。五穀梢彫。(原文p128) 原文p128 CiNii 図書 - 續日本紀
  河内国の丹比郡狭山の下の池を築いた。(p333) p333 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 築河内國丹比郡狹山下池。(原文p130) 原文p130 CiNii 図書 - 續日本紀
  農耕に従事している蝦夷で…(p364) p364 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 田夷(原文p143) 原文p143 CiNii 図書 - 續日本紀
  (比羅保許山から雄勝山に至る五十里あまり)ただ二つの河があって、増水する度に両所とも船を用いて渡るといいます。(p365) p365 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 其間亦平。唯有兩河。每至水漲並用船渡。(原文p144) 原文p144 CiNii 図書 - 續日本紀
  また東人の本来の計画では、早く賊地にはいって耕作し、穀物を貯え、兵糧運搬の費用を省こうということでありました。(p366) p366 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 亦東人本計。早入賊地。耕種貯穀。省運糧費。(原文p144) 原文p144 CiNii 図書 - 續日本紀
  疫病と旱魃が起こって田の苗は枯れしぼんでしまった。このため山川の神々に祈禱し、…(p367) p367 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 疫旱竝行田苗燋萎。由是祈禱山川(原文p145) 原文p145 CiNii 図書 - 續日本紀
  稲は盛んに繁っている。この後も風や雨が順調で、穀物が成熟するようでありたいと願っている。(p388) p388 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 苗子盛秀。欲令風雨調和年穀成熟。(原文p155) 原文p155 CiNii 図書 - 續日本紀
  風雨が順調で五穀もよく実った。(p410) p410 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 風雨順序。五穀豐穰。(原文p164) 原文p164 CiNii 図書 - 續日本紀
  夏四月二十二日 従四位上の巨勢朝臣奈氐麻呂・従四位下の藤原朝臣仲麻呂・従五位下の民忌寸大楫・外従五位下の陽侯史真身らを遣わして、河内国と摂津国が河の堤の帰属を争っている場所を検べさせた。(p413) p413 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 夏四月辛丑。遣從四位上巨勢朝臣奈氐麻呂。從四位下藤原朝臣仲麻呂。從五位下民忌寸大楫。外從五位下陽侯史眞身等。撿校河內与攝津相爭河堤所。(原文p165) 原文p165 CiNii 図書 - 續日本紀
  宮の造営にあてるために、大養徳・河内・摂津・山背の四カ国の夫役五千五百人を徴発した。(p415) p415 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 爲供造宮。差發大養コ。河內。攝津。山背四國夫役五千五百人。(原文p166) 原文p166 CiNii 図書 - 續日本紀
  各種の工人を率いて越智山陵を修理させた。(p420) p420 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 率雜工修繕緝之。(原文p168) 原文p168 CiNii 図書 - 續日本紀
  使者を畿内に派遣し、長雨にあった人民の生業を取り調べさせた。(p420) p420 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遣使畿內。撿校遭澇百姓產業。(原文p168) 原文p168 CiNii 図書 - 續日本紀
  宇治谷 孟『続日本紀(中)全現代語訳』(講談社学術文庫、1992)        
  聞くところによると、墾田は養老七年の格によって、期限が満ちた後は例に従って、官に収め口分田として班給すると。そのために農夫は怠けてなげやりになり、土地を開墾してもまた荒れてしまう。それで今から後は、自分で開墾した土地は、自由に個人の財産として、三世一身の法をあてはめることなく、すべてみな永年にわたって、公が取り上げることがないようにせよ。その土地の広さは、親王の一品と一位の者には五百町、二品と二位には四百町、三品・四品と三位には三百町、四位には二百町、五位には百町、六位以下八位以上には五十町、初位以下庶民に至るまでは十町とせよ。ただし郡司は、大領・少領のものには三十町、主政・主帳には十町とせよ。もし以前に与えられた土地で、この限度より多いものがあれば、すみやかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺くものがあれば、罪を科することは法の定めるところによる。国司が在任中の墾田は、すべて前格に従え。(p18-19) p18-19 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 乙丑。詔曰。如聞。墾田依養老七年格。限滿之後。依例收授。由是。農夫怠倦。開地復荒。自今以後。任爲私財無論三世一身。咸悉永年莫取。其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者。大領少領三十町。主政主帳十町。若有先給地過多茲限。便即還公。姦作隱欺科罪如法。國司在任之日。墾田一依前格。(原文p174) 原文p174 CiNii 図書 - 續日本紀
  楯縫・出雲の二郡に雷雨が常と異って激しく降り、山岳が崩れ落ち、人家をこわし田圃を埋めてしまいました。(p21) p21 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 楯縫出雲二郡雷雨異常。山嶽頽崩。壞廬舍埋田畝。(原文p175) 原文p175 CiNii 図書 - 續日本紀
  水路によって兵庫にあった武器を船で運ばせた。(p27) p27 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 又遣使取水路運漕兵庫器仗(原文p177) 原文p177 CiNii 図書 - 續日本紀
  肥後国に雷雨と地震があった。…田二百九十町、民家四百七十余区と、人千五百二十余人が水中に漂ったり、水没したりした。(p28) p28 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 肥後國雷雨地震。…并田二百九十餘町。民家四百七十餘區。人千五百廿餘口被水漂沒。(原文p177) 原文p177 CiNii 図書 - 續日本紀
  四月以来雨が降らず、田植えができない。(p40) p40 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 自四月不雨。不得種藝。(原文p183) 原文p183 CiNii 図書 - 續日本紀
  この月の地震の多発は異常であって、度々地面に亀裂が生じ、そこから泉水が湧出した。(p41) p41 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 是月。地震異常。往々坼裂。水泉涌出。(原文p183) 原文p183 CiNii 図書 - 續日本紀
  寺院が土地を買い取ることは、律令によって禁止されていることである。それにもかかわらず近年土地を買い占めることが盛んである。…よろしく京職および畿内の国司に厳しく取り締り、禁止の措置をとらせることにする。(p49) p49 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 凡寺家買地。律令所禁。此年之關阡繁多。於埋商量。…@゚京及畿內嚴加禁制。(原文p186) 原文p186 CiNii 図書 - 續日本紀
  諸寺が競って人民の墾田や園地を買い取って永代の寺地とすることが行われているが、これを禁止する。(p52) p52 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 禁ゥ寺競買百姓墾田及園地永爲寺地。(原文p187-188) 原文p187-188 CiNii 図書 - 續日本紀
  去る六月より京師は日照りにみまわれている…稲の苗は枯れしぼんでしまった。(p62) p62 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 自去六月。京師亢旱。…苗稼燋凋。(原文p193) 原文p193 CiNii 図書 - 續日本紀
  その僧寺・尼寺の水田は、以前に施入された数を除いて、さらに田地を加え、僧寺には九十町、尼寺には四十町、所司に命じて開墾させて施入するであろう。(p64) p64 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 其僧寺尼寺水田者除前入數巳外。更加田地。僧寺九十町。尼寺四十町。便仰所司墾開應施。(原文p194) 原文p194 CiNii 図書 - 續日本紀
  大僧正の行基和尚が遷化した。…また自ら弟子たちを率いて、諸所の要害の地に橋を造り堤防を築いた。和尚の評判が伝わっている処の人々は、すべてやってきて仕事に協力したので、日ならずして完成した。人民は今に至るまでその利益を蒙っている。(p71) p71 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 大僧正行基和尙遷化。・又親卛弟子。於ゥ要害處造橋築陂。見聞所及咸來加功。不日而成。百姓至今蒙利焉。(原文p196-197) 原文p196-197 CiNii 図書 - 續日本紀
  諸寺の墾田地の限度を定めた。大安寺・薬師寺・興福寺・大倭国の法華寺・もろもろの国分金光明寺には寺毎に千町、大倭国の国分金光明寺は四千町、元興寺には二千町、弘福寺・法隆寺・四天王寺・崇福寺・新薬師寺。建福寺・下野の薬師寺・筑紫の観世音寺は寺毎に五百町、諸国の法華寺は寺毎に四百町、その他の定額寺は寺毎に百町とされた。(p86-87) p86-87 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 定ゥ寺墾田地限。大安。藥師。興aB大倭國法華寺。ゥ國分金光明寺。々別一千町。大倭國々分金光明寺四千町。元興寺二千町。弘aB法驕B四天王。崇aB新藥師。建興。下野藥師寺。筑紫觀世音寺。々別五百町。ゥ國法華寺。々別四百町。自餘定額寺。々別一百町。(原文:204) 原文:204 CiNii 図書 - 續日本紀
・46代 – 孝謙天皇        
  京中ににわか雨が降り、川の水が溢れ出た。また河内の伎人堤・茨田堤などが所々決潰した。(p96) p96 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 京中驟雨。水潦溢。又伎人。茨田堤往々決壞。(原文p210) 原文p210 CiNii 図書 - 續日本紀
  難波の堀江のほとり(p129) p129 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 太上天皇幸堀江上。(原文p224) 原文p224 CiNii 図書 - 續日本紀
  (帰順した夷俘に)種籾を給付し水田を耕作できるようにさせて…(p188) p188 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 量給種子。令得佃田。(原文p247)  
  東海・東山道の間民苦使…(p189) p189 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 東海。東山道間民苦使…(原文p248) 原文p248 CiNii 図書 - 續日本紀
      『国史大系 續日本紀 後篇(新訂増補普及版)』(吉川弘文館、1974)    
・47代 – 淳仁天皇          
  散位で外従五位下の物部山背・正六位下の曰佐若麻呂を遣わして、畿内の溜め池・井堰・堤防・用水路の適地を視察させた。(p267) p267 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 使散位外從五位下物部山背。正六位下曰佐若麻呂。行視畿內陂池堰堤溝洫之所=B(原文p278-279) 原文p278-279 CiNii 図書 - 續日本紀
  遠江国の荒玉河の堤が三百余丈にわたって決潰した。延べ三十万三千七百余人を使役し、食料を支給して修築させた。(p269) p269 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遠江國荒玉河堤决三百餘丈。單功卅萬三千七百餘人。充粮修築。(原文p279) 原文p279 CiNii 図書 - 續日本紀
  保良宮の西南に新たに池と亭を造り、曲水の宴を催した。(p280) p280 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 於宮西南。新造池亭。設曲水之宴。(原文p286)(農業用ではない) 原文p286 CiNii 図書 - 續日本紀
  河内国狭山池の堤が決潰し、のべ八万三千人を動員して修造した。(p281) p281 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 河內國狹山池隄决。以單功八万三千人修造。(原文p287) 原文p287 CiNii 図書 - 續日本紀
  河内国の長瀬川の堤が決潰した。のべ二万二百余人を動員して修造させた。(p284) p284 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 河內國長P隄决。發單功二万二千二百餘人修造焉。(原文p288) 原文p288 CiNii 図書 - 續日本紀
  これは国司・郡司の民を使役する時期が適当でなく、堤・堰・を修造しなかったための過失である。今後、もしこの類のことがあれば、目以上の国司を悉く交代させよ…(これ:日照りや長雨などによる被害)(p300) p300 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 此者國郡司使民失時。不修隄堰之過也。自今以後。若有此色。自目巳上℃サ遷替。(原文p295) 原文p295 CiNii 図書 - 續日本紀
  朝廷は使者を遣わして、池を大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐などの国に築かせた。(p315) p315 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遣使築池於大和。河內。山背。近江。丹波。播磨。讃岐國。(原文p303) 原文p303 CiNii 図書 - 續日本紀
・48代 – 称徳天皇          
  今、聞くところによると、墾田は天平十五年の格によって任意に開墾者の私有財産とし、三世一身で定められた三代までという所有の期限を区切ることなく、みな永久に収公されないことになった。このため天下の人々は競って田を開発するようになり、勢力のある人々の間では、人々を追いたてるように開墾に使役し、貧しく困窮している人々は自活する暇もない程である。そこで今後は一切開墾を禁止し、これ以上墾田の開発をさせてはならない。ただし寺院がすでに土地を占定して開墾を進めているものはこの限りでない。また、その土地の人民が一ないし二町を開墾するのはこれを許す。(p349) p349 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 今聞。墾田緣天平十六年格。自今以後。任爲私財。無論三世一身。咸悉永年莫取。由是。天下諸人競爲墾田。勢力之家駈役百姓。貧窮百姓無暇自存。自今以後。一切禁斷。勿令加墾。但寺先來定地開墾之次不在禁限。又當土百姓一二町者亦°又V。(原文p319) 原文p319 CiNii 図書 - 續日本紀
  聞くところでは国司らが朝廷の委任にこたえず、私利を追及していることがいち早くあらわれ、倉庫は空っぽで、残っている稲穀は腐って赤くなっているということである。(p384) p384 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 如聞。國司朝委未稱。私利早著。倉庫懸磬。稻穀爛紅。(原文p334) 原文p334 CiNii 図書 - 續日本紀
  (巡察使に)国司交代時にともなう訴えの是非を判断し、あわせて田地の稔りの良否を検べさせた。(p385) p385 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 採訪百姓疾苦。判斷前後交替之訟。并撿頃畝損得。(原文p335) 原文p335 CiNii 図書 - 續日本紀
  農業は天下の根本であり…(国司・郡司たちに)全国に命じて農耕や養蚕にはげみ努力させるようにせよ。(p402) p402 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 夫農者天下之本也。…@゚天下勤事農桑。(原文p341) 原文p341 CiNii 図書 - 續日本紀
  左京の人で、従八位上の荒木臣道麻呂と、その息子で無位の忍国は、…荘三カ所を…西大寺に献上したが…(p403) p403 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 左京人從八位上荒木臣道麻呂。及其男无位忍國。庄三區。…於西大寺。…(原文p343) 原文p343 CiNii 図書 - 續日本紀
  下総国が次のように言上した。天平宝字二年に本道の問民苦使・正六位下の藤原朝臣浄弁らは毛野川を堀り、新しい水路を造って洪水を防ぐ必要のあることを詳しく記して太政官に提出し、すでにその許しを得ました。その後七年も経っていますが、まだ出来ていません。常陸国から文書がありまして、次のようにのべています。「今、到着した太政官府によって、これから川を掘ろうとしているが、その水路を調べてみると、ちょうど神社の敷地をつきぬけることになっています。その上、人民の宅も損なうことが少なくない。このため状況を詳しく記して太政官に上申したところ、毛野川を掘ってはならないとのことであった。そうなるとこれから毎年また洪水がおこり損失は日ごとに殖えることになります。もし、早く掘り防がなかったら、恐らく用水の溝もこわれて埋まり、全郡の口分田二千余田もながく荒廃することになるでしょう」これをうけて太政官は両国に命じて毛野川を掘らせた。新しい水路は下総国結城郡小塩郷の小嶋村から、常陸国新治郡川曲郷の受津村に達する千丈あまりに及んだ。両国の境界はこれまで通り、旧い川によって定めることとし、水路の変化によって移し改めないことにさせた。(p433-434) p433-434 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 下総國言。天平寳字二年。本道問民苦使正六位下藤原朝臣淨弁具注應掘防毛野川之狀申官。聽許已訖。其後已經七年。得常陸國移曰。今被官符。方欲掘川。尋其水道。當決~社。加以百姓宅所損不少。是以具狀申官。#恁@者。此頻年洪水。損決日u。若不早掘防。恐渠川崩埋。一郡口分二千餘田。長爲荒廢。於是仰兩國掘。自下總國結城郡小塩ク小嶋村。達于常陸國新治郡川曲ク受津村一千餘丈。其兩國郡堺。亦以舊川爲定。不得隨水移改。(原文p357) 原文p357 CiNii 図書 - 續日本紀
  宇治谷 孟『続日本紀(下)全現代語訳』(講談社学術文庫、1995)          
  尾張国が次のように言上した。「この国と美濃国との堺を流れる鵜沼川で、今年洪水がありました。その大水が道路を埋め、日ごとに、葉栗・中嶋・海部の三郡の人民の田宅を侵し、損害を出しています。また国府と国分二寺は、共にその下流に位置しているので、もしこのまま歳月を経れば、必ず水害によって壊れ流されるでありましょう。そこで、解工使を派遣して、旧道を復旧させることを申請いたします」と。(p13) p13 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 尾張國言。此國与美濃國堺。有鵜沼川。今年大水。其流沒道。每日侵損葉栗。中嶋。海部三郡百姓田宅。又國府并國分二寺。倶居下流。若經年歲。必致漂損。望請。遣解工使。開掘復其舊道。許之。(原文p368) 原文p368 CiNii 図書 - 續日本紀
  河内国の志紀郡・渋川郡・茨田郡などの堤を修繕した。延べの労働者数は三万人余りであった。(p40) p40 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 修志紀。澁川。茨田等隄。單功三万餘人。(原文p378) 原文p378 CiNii 図書 - 續日本紀
・49代 – 光仁天皇          
  この月は、一日から雨が降り続き、大風も加わった。河内国の茨田堤が六カ所、渋川堤が十一カ所、志紀郡の堤防五カ所がいずれも決壊した。(p97) p97 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 是月。自朔日雨。加以大風。河内國茨田堤六處。澁川堤十一處。志紀郡五處並决。(原文p405) 原文p405 CiNii 図書 - 續日本紀
  また天平神護元年には、すでに開墾した田地を除く他は、新たに国の田を開墾することを禁断した。しかし、ここに至って、この制度を共に廃止した。(p100) p100 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 又天平~護元年。禁斷除前墾外天下開田。至是並停此制。(原文p406) 原文p406 CiNii 図書 - 續日本紀
  餝摩郡草上駅の駅戸にとって便宜のよい田は、今は太政官符によって四天王寺二施入され、代わりに遥かに隔った隣郡の田を与えられました。このため耕作することができず、弊害を被るにますます甚しいものがあります。(p107) p107 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 餝摩郡草上驛。々戶便田。今依官符捨四天王寺。以比郡田遙授驛戶。由是不能耕佃。受弊弥甚。至是勅班給驛戶。(原文p408-409) 原文p408-409 CiNii 図書 - 續日本紀
  天下の諸国に命じて、池や溝を修理・築造させた。(p133) p133 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 令天下諸國修造溝池。(原文p418) 原文p418 CiNii 図書 - 續日本紀
  使者を畿内五カ国に遣わして、堤や池を修理・築造させた。同時に、三位以上の官人を派遣して監督させた。国ごとに一人とする。(p133) p133 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遣使於五畿内。修造陂池。並差三位已上。以爲撿校。國一人。(原文p419) 原文p419 CiNii 図書 - 續日本紀
  使者を伊勢に遣わして、渡会郡の堰と溝を修繕させ、また多気・渡会二郡の農耕によい地を視察させた。(p137) p137 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遣使於伊勢。繕修渡會郡堰溝。且令行視多氣渡會二郡″k種地。(原文p420) 原文p420 CiNii 図書 - 續日本紀
  畿内五カ国に使者を遣わして、池や溝を修理・造営させた。(p147) p147 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遣使於五畿内。修造溝池。(原文p424) 原文p424 CiNii 図書 - 續日本紀
  天下の諸国に蝗の害があった。畿内に使者を遣わして巡視させ、その他の諸国は国司に事に当たらせた。(p157) p157 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 天下諸國蝗。畿内者遣使巡視。餘者令國司行事。(原文p429) 原文p429 CiNii 図書 - 續日本紀
  楊梅宮の南池に蓮が生え、一本の蓮の茎に二つ花が咲いた。(p173) p173 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 楊梅宮南池生蓮。一莖二花。(原文p435) 原文p435 CiNii 図書 - 續日本紀
  この冬は雨が降らなくて、井戸の水が涸れ、出水川も宇治川も徒歩で渡れるようになった。(p179) p179 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 是冬。不雨。井水皆涸。出水宇治等川並可掲氏i原文p438) 原文p438 CiNii 図書 - 續日本紀
  因幡国が次のように言上した。「去る六月二十九日に激しい雨により、山が崩れて水が溢れ、岸や谷は土地が流出しました。人畜は漂流し、田や家屋は損害をうけ、飢饉の民は三千余人あります。」(p209) p209 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 因幡國言。去六月廿九日暴雨。山崩水溢。岸谷失地。人畜漂流。田宅損害。飢饉百姓三千餘人者。(原文p450) 原文p450 CiNii 図書 - 續日本紀
  駿河国が次のように言上した。去る七月十四日に、大雨が降ったので、水が溢れて二郡の堤防を決壊し、人民の家屋を壊しました。また口分田も流され埋まりました。その数ははなはだ多く、この復旧に人夫延六万三千二百余人を使役すべきでしょう。そこで、食糧を給い、これを修築させた。(p216-217) p216-217 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 駿河國言。以去七月十四日。大雨汎溢。决二郡堤防。壞百姓廬舍。又口田流埋。其數居多。應役單功六万三千二百餘人者。給粮修築之。(原文p453) 原文p453 CiNii 図書 - 續日本紀
  昔は人が多く田が少ないのに貯蓄があったのは、節約して使ったからです。今は土地は開け戸数が減ったのに、不足を憂えているのは浪費をしているからです。(p230) p230 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 古者人稠田少。而有儲蓄。由於節用也。今者地闢戶減而患不足。由於糜費也。(原文p458) 原文p458 CiNii 図書 - 續日本紀
  富裕な農民(p231) p231 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 點殷富百姓才(原文p458) 原文p458 CiNii 図書 - 續日本紀
  今、「永」というのは一代限りをいうのである。今後、これを恒例とせよ。これ以前、これ以後に施入するものもひとえにこれに准ぜよ。(p238) p238 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 今謂永者是一代耳。自今以後立爲恒例。前後所施一准於此。(原文p461) 原文p461 CiNii 図書 - 續日本紀
  溝を深くして堅固な砦を造り…(p249) p249 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 深溝作險(原文p465) 原文p465 CiNii 図書 - 續日本紀
  河内国が次のように言上した。「尺度の池の水が、今月十八日の巳の刻から酉の刻にかけて、変じて血の色になり、たいへん生臭い臭いがしました。長さは二町余ばかりで幅は三丈ほどありました」と。(p276) p276 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 河內國言。尺度池水。以今月十八日。自巳至酉。變成血色。其臰甚羶。長可二町餘。廣可三丈。(原文p476) 原文p476 CiNii 図書 - 續日本紀
・50代 – 桓武天皇          
  正六位上の贄田物部首年足に外従五位下を授けた。越智池を築いたからである。(p315) p315 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 授正六位上贄田物部首年足外從五位下。以築越智池也。(原文p492) 原文p492 CiNii 図書 - 續日本紀
  今後は、私に道場を建てたり、田や家や園地を喜捨したり、またそれらを売却・交換して寺に与えたりしたならば、主典以上の官人は現職を解任し、その他の官人は蔭や贖の特権を論せず、杖八十叩きの刑に処す。事情を知りながら禁止しなかった役人もまた同罪とする。(p319) p319 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 自今以後。私立道場。及將田宅園地捨施。并賣易与寺。主典已上解却見任。自餘不論蔭贖。决杖八十。官司知而不禁者。亦与同罪。(原文p493-494) 原文p493-494 CiNii 図書 - 續日本紀
  今月七日の卯の時に、長さ四分ばかりで色が黒く斑の蝦蟇二万匹ばかりが、難波の市の南道の南にあるたまり水から、三町程連なって道にしたがって南行し…(p331) p331 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 今月七日夘時。蝦蟇二万許。長可四分。其色K斑。從難波市南道。南行池列可三町。隨道南行。(原文p499-500) 原文p499-500 CiNii 図書 - 續日本紀
  河内国茨田郡の堤防が十五カ所で決壊したので、延べ六万四千余人分の人夫に食料を与えて修築させた。(p335) p335 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 河內國茨田郡堤。决一十五處。單功六萬四千餘人。給粮築之。(原文p501) 原文p501 CiNii 図書 - 續日本紀
  (国司は)林野を広く占有して人民の生活手段を奪ったり、多くの田畑を経営して人民の生業を妨げたりしている。…今後、国司らは公廨田の外に水田を営んではならない。(p338) p338 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 自今以後。國司等不得公廨田外更營水田。又不得私貪墾闢侵百姓農桑地。如有違犯者。收獲之實。墾闢之田。(原文p502) 原文p502 CiNii 図書 - 續日本紀
  山や川、草木が群がり茂っている大きな沢など未開発地の利用について、公私共にすることは令文に詳しい規定がある。しかし、聞くところによると、この頃、王臣家や諸々の役所・寺院は、山林を囲って占有し、利益を独占しているという。ここでこれを禁止しなければ、どうして民は救われようか。禁断を加えて、公私共に利用できるようにせよ。もし違反する者があれば違勅の罪を科し、担当の役人でへつらいこれを緩める者があれば、これも同罪とする。また、その諸氏の塚や墓は、もっぱら旧の境界に従い、樹木を切り損じてはならない。(p341) p341 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 山川薮澤之利。公私共之。具有令文。如聞。比來。或王臣家。及ゥ司寺家。包并山林。獨專其利。是而不禁。百姓何濟。♂チ禁斷。公私共之。如有違犯者。科違敕罪。所司阿縱。亦与同罪。其ゥ氏冢墓者。一依舊界。不得斫損。(原文p503) 原文p503 CiNii 図書 - 續日本紀
  使者を遣わし、摂津国の神下・梓江・鰺生野を掘って三国川に通じさせた。(p343) p343 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遣使堀攝津國~下。梓江。鰺生野。通于三國川。(原文p504) 原文p504 CiNii 図書 - 續日本紀
  (淡海真人三船)宝字八年には造池使に任命され、近江国に行って溜池を修造した。(p358) p358 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 八年被充造池使。往近江國修造陂池。(原文p510) 原文p510 CiNii 図書 - 續日本紀
  河内国が次のように言上した。「洪水で水があふれ、人民は流されて、船に乗ったり堤防の上に仮住まいしたりしています。食糧が欠乏し、苦しみはまことに大変なものであります。(p363) p363 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 河內國言。洪水汎溢。百姓漂蕩或乘船。或寓堤上。粮食絕乏。艱苦良深。於是。遣使監巡。兼加賑給焉。(原文p512) 原文p512 CiNii 図書 - 續日本紀
  使者を畿内五カ国に遣わして水田を検査させた。班田収授を行うためである。(p364) p364 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遣使五畿內檢田。爲班授也。(原文p513) 原文p513 CiNii 図書 - 續日本紀
  河内国の堤防で三十カ所決壊した。延べ三十万七千人余りに食糧を支給して修築させた。(p366) p366 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 河內國破壞堤防卅處。單功卅万七千餘人。給粮修築之。(原文p514) 原文p514 CiNii 図書 - 續日本紀
  中宮大夫・従四位上で民部大輔・摂津大夫を兼任する和気朝臣清麻呂が次のように言上した。「河内・摂津両国の境に川を堀り堤を築きたいと思います。荒陵の南から河内川を西方に導いて海に通じさせます。そうすれば肥沃な土地がますます広がり、開墾することができます。」と。そこで清麻呂を遣わしてその事業を担当させ、延べ二十三万余人に食糧を支給して、事業に従事させた。(p394-395) p394-395 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 中宮大夫從四位上兼民部大輔攝津大夫和氣朝臣C麻呂言。河內攝津兩國之堺。堀川築堤。自荒陵南。導河內川西通於海。然則沃壤u廣。可以墾闢矣。於是。便遣C麻呂勾當其事。應須單功廿三萬餘人給粮從事矣。(原文p528) 原文p528 CiNii 図書 - 續日本紀
  この頃は日照りが何ヵ月も続き、溝や池の水が乏しくなって、人民の間では田畑を耕して種播きすることができない。そこで所轄の官司に命じて、皇族・臣下を問わず、その家の田で水のあるところは、人民に任せ自由に塞きとめさせて種播きをさせ、農業の時期を逸しないようにせよ。(p396) p396 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 敕五畿內。頃者亢旱累月。溝池乏水。百姓之阨s得耕種。°ツ所司不問王臣。家田有水之處。恣任百姓。擁令播種。勿失農時。(原文p529) 原文p529 CiNii 図書 - 續日本紀
  去年の冬から雨が降らず、すでに五ヵ月がたった。灌漑の水はすでにつきはてて、公私ともに人々はみな望みを絶たれていた。(p396) p396 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 自去冬不雨。旣經五箇月。潅漑已竭。公私望斷。(原文p529) 原文p529 CiNii 図書 - 續日本紀
  その後も多く雨が降り、遠国も近国も全国に行きわたり、ついに田植えを行うことができた。(p396) p396 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 是夕大雨。其後雨多。遠近周匝。遂得耕殖矣。(原文p529) 原文p529 CiNii 図書 - 續日本紀
  私たちが遠く進んで賊に接近し征伐しようと思いましても、食糧の運搬が困難です。玉造塞から衣川の営に至るまで四日、食糧や軍用品の受け渡しに二日間、そうしますと往復で十日かかります。衣川から子波の地に至るまでの行程を仮に六日としますと、食糧・軍用品の受け渡しも入れて、往復で十四日です。総計して、玉造塞から子波の地に至るまで、往復二十四日間の行程となります。途中で賊にあって合戦したり、雨に妨げられて進めなかったりする日はこの行程に含めていません。また河と陸路を使って食糧や軍用品を運搬する者は、一万二千四百四十人で、一度に運べる糒は六千二百十五石です。征討二万七千四百七十人が一日に食べる量は五百四十九石ですから、これをもって補給と消費を計算しますと、一度に運べるものでは、わずかに十一日間しか支えることができません。(p414-415) p414-415 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 遠欲薄伐。粮運有艱。其從玉造塞。至衣川營四日。輜重受納二箇日。然則往還十日。從衣川至子波地。行程假令六日。輜重往還十四日。惣從玉造塞至子波地。往還廿四日程也。途中逢賊相戰。及妨雨不進之日不入程內。河陸兩道輜重一萬二千四百卌人。一度所運糒六千二百十五斛。征軍二万七千四百七十人。一日所食五百卌九斛。以此支度。一度所運。僅支十一日。(原文p537) 原文p537 CiNii 図書 - 續日本紀
  しかし順調な気候は訪れず、日照りが災いとなって田畑は荒れ、農地の多くは荒廃しきっている。(p440) p440 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 而至和靡屆。炎旱爲灾。田疇不修。農畝多廢。(原文p548) 原文p548 CiNii 図書 - 續日本紀
  これより先に、諸国の国司らはいつも荒れたままで使われていない田を調べて没収し、人民の口分田に割り当てた。しかし、口分田とは名目上のみで、人民は田祖を出すことができない。また皇族・貴族・郡司・富裕な人民らは、下田を上田と交換させたり、不便な田を便利な田と交換させたりしている。このようなことがあちこちで行われていた。ここにおいて、天皇は所轄の官庁に命じて、天平十四年・天平勝宝七歳などの田図・田籍にさかのぼって、すべて皆改正させた。来年は班田が行われるからである。(p457) p457 CiNii 図書 - 続日本紀 : 全現代語訳 先是。諸國司。校收常荒不用之田。以班百姓口分。徒受其名。不堪輸租。又王臣家。國郡司。及殷富百姓。或以下田相易上田。或以便相換不便。如此之類。觸處而在。於是仰下所司。却據天平十四年勝寳七歳圖籍。咸皆改正。爲來年班田也。(原文p554) 原文p554 CiNii 図書 - 續日本紀
  森田 悌『日本後紀(上)全現代語訳』(講談社学術文庫、2006)     森田 悌『日本後紀(上)全現代語訳』(講談社学術文庫、2006)    
  今後は塚の周囲に隍を築き、濫れ穢れたりすることのないようにせよ。(p33-34) p33-34 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 自今以後、冢化置隍、勿使濫穢。(p33-34) p33-34 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  新京の宮城の敷地の中へ入ることになる百姓の土地四十四町の代価として、賃祖に出して得られる収益の三年分を支給した。(p49) p49 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 新京宮城之内、百姓地卌四町、給三年価直。(p49) p49 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  葛野郡の百姓の口分田の多くが平安京の中へ入り収公されることになったので、山背国の雑色田を停止して、それを百姓に班給せよ。(p52) p52 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 葛野郡百姓口分田、多入都中。宜停山背國雜色田、班給百姓。(p52) p52 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  正四位下和気朝臣清麻呂が、能登国の墾田五十八町を神願寺へ施入したいと奏請してきたので、許可した。(p56) p56 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 正四位下和氣朝臣清麻呂奏請。能登國墾田五十八町、施入神願寺。(p56) p56 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  勅により、長岡京建設の際に立ち退いた百姓に支給した代価の返還を求めないことにした。(p57−58) p57−58 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 勅。長岡京百姓、宅地価直、不可悔返。云々。(p57−58) p57−58 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  田宅・園地の寺への施入と売買・交換による譲渡は、久しい以前から禁止されてきている。しかし、いま聞くところによると、往々にして、寺が他人の名義を借りて、実は自分のものにすることが行われているという。そこで、すでに寺へ施入されている土地について調査して報告せよ。今後は寺が得た土地は官が没収することにし、このようなことのないようにせよ。(p79―80) p79―80 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 勅。以田宅園地捨施、及売易与寺、禁制久矣。今聞。或寺借附他名、実入寺家。如此之類、往々而在。此而不粛、豈曰皇憲。宜其先既施捨、勘録申之、以後皆没官、以懲将來。(p79―80) p79―80 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  ところで、先日太宰府が「肥後国阿蘇郡の山上に神霊池という名の沼があります。この沼の水は大雨や日照りが続いても増減することがありませんでしたが、このたび原因の判らないまま涸れて、二十余丈も減ってしまいました」と言上してきた。(p109−111) p109−111 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 比来、大宰府言、肥後国阿蘇郡山上有沼、其名曰神靈池、水旱經年、未嘗増減而今無故涸減二十余丈(p109−111) p109−111 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  内兵庫正従五位下尾張宿禰弓張を遣わして、佐比川橋を築造させた。(p111−112) p111−112 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 遣内兵庫正従五位下尾張宿禰弓張、造佐比川橋、」(p111−112) p111−112 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  弾正弼文室波多麻呂を派遣して、宇治橋を造らせた。(p148−149) p148−149 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 遣弾正弼文室波多麻呂造宇治橋(p148−149) p148−149 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  郷里を離れて浮浪する者たちが王臣の庄に住みつき、主人である王臣の威勢を借りて調庸を納入していない。また、庄の管理人である庄長には私田を営む者が多く、王臣の勢いに乗じて、周辺の農民を深く損なっている者がいる。悪事は源から断つ必要があり、取り締まるようにせよ。(p154−156) p154−156 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 浮宕之徒、寄住王臣之庄、仮勢其主、全免庸調、云々、又庄長多営私田、仮威乗勢、蠧民良深、奸猾之源、不可不絶、宜加禁制、(p154−156) p154−156 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  後宮の溝で魚を捕らえた。(p155−156) p155−156 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 掖庭溝中獲魚。(p155−156) p155−156 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  右京の人正六位上許曾部朝臣帯麻呂らが次のように言上した。大和国広瀬郡には田畑が多く、灌漑用の水が不足しています。伏して望みますには、公田七町を使用して堤を築いて池を造り、公私の利益を図りたいと思います。工事に必要な労務者に提供する功賃や食料には私財を用いる予定です。言上を許可した。(p161-162) p161-162 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 右京人正六位上許曾部朝臣帶麻呂等言、大和国廣瀬郡、田疇多数、灌漑乏水、伏望以公田七町、築堤為池、同利公私、其功食等、並用私物、許之、(p161-162) p161-162 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  大和国添下郡の荒廃した公田二十四町と旧池一処を秋篠寺へ施入して、永く寺田とすることにした。(p183-184) p183-184 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 大和国添下郡荒廃公田廿四町、旧池一処、入秋篠寺、永為寺田。(p183-184) p183-184 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  清麻呂は摂津大夫として河内川を開削して、大阪湾へ直接流入させ水害を防ごうとしたが、費用が膨大となり、工事を完成させることができなかった。備前国にある私墾田百町を永く振給田とし、郷里の人々はこれに感謝した。(p198-203) p198-203 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 清麻呂為攝津大夫、鑿河内川、直通西海、擬除水害、所費巨多、功遂不成、私墾田一百町在備前國、永為振給田、郷民惠之、(p198-203) p198-203 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  何日も洪水が続いて、稲の苗が腐損してしまった。(p205-208) p205-208 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 澇水経日。苗稼腐損。(p205-208) p205-208 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  いま格では山・野・浜・島の利益は一人占めすることなく、公私が共にせよと言っていますが、権勢家や有力者が競って百姓の用益を妨害し、力ある者がますます栄え、貧弱の者は日々に衰幣する状態です。伏して、豪民により独占されている山・野・浜・島を収めて、民が利用できるようにすることを要望します。これに対して、天皇は次のように勅した。勢いのままに貧民を圧迫するのは、利益を共にせよとする原則に背いている。禁制を出して、そのようなことのないようにせよ。(p228-229) p228-229 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 而今依格、山野浜島、公私共之、勢家・豪民、竸事妨奪、強勢之家弥栄、貧弱之民日弊、伏望任奪給民、勅、乗勢迫貧、事乖共利、宜加禁制、莫令更然(p228-229) p228-229 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  山藪は公私誰もが利用できるのが原則であり、これに即して法を布告し、再三にわたり独占的利用を禁止してきた。ところが、伊賀国では国法を顧慮せず、王臣や権勢家が山林を独占して百姓の利用を排除している状態である。国郡の役人はこれを知りながら取り締まらず、人民の利益を妨害する点でこれ以上のものはない。このような違法を当然として改悛することがなければ、法に従い科罪せよ。去る延暦十七年に布告した法により、独占されている未開地はすべて公地とし、百姓だれもが利用できるようにせよ。ただし、東寺と西寺が堂宇建造用の大木を得るために伐り出すのは、特別に許可する。(p242-245) p242-245 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 山薮之利、公私須共、是以屡下明制、重禁專檀、而伊賀国不顧朝憲、王臣・豪民、広占山林、不許民採、国郡官司、知而不禁、妨民奪利、莫過於斯、若慣常不悛、科處如法、宜准去十七年格、尽収還公、令百姓共貴利、但東西二寺、称構堂宇、其巨樹直木、特聴禁斷、(p242-245) p242-245 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  以前のあり方に戻し、国司の公廨田を復活した。(p250-251) p250-251 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 依旧更置国司公廨田。(p250-251) p250-251 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  山城・大和・河内・摂津・近江・丹波等の諸国の民一万人を動員した。葛野川の堤防を修繕するためである。(p251-252) p251-252 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 発山城・大和・河内・攝津・近江・丹波等諸国民一万人、以修葛野川隄(p251-252) p251-252 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  聞くところによると、山城国の百姓が水田を売買するときは稲を代価とし、銭に換算すると一町につき一万銭以上になっているという。今後は上田一町の値を四千銭とし、中・下田はこれに准じて差をつけ、減額せよ。もし、この法に違反した場合は、違勅罪に処せ。(p268-270) p268-270 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 勅、如聞、山城国百姓、売買水田、以稲為直、准錢論之、町過万錢、自今以後、宜上田一丁直銭四千、中・下田者准此差減、若有違法、処違勅罪、(p268-270) p268-270 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  天皇が伊予親王の愛宕庄へ行幸した。…途中伊予親王の大井庄に立ち寄った。(p294-295) p294-295 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 幸伊予親王愛宕庄、・・便過伊予親王大井荘(p294-295) p294-295 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  浸食されて川となった土地は、多く田籍から外されるにもかかわらず、新しく田となった土地についての言上を聞くことがない。川の西岸から削られて公田が失われれば、東岸に新しく土地が出現することになるが。私地として占められてしまっている。このようなまま年数が経過すれば、公田の損失はいかばかりとなろうか。そこで、天平十四年以降の新しく出現した土地を詳しく調査し、言上せよ。(p316-317) p316-317 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 頽壊成川之地、屡事除籍、新出為田之状、未聞言上、若西岸壊流、既損公田、則東辺新成、点為私地、如此経年、公損幾何、宜天平十四年以降新出田数、細勘言上。不得疏漏、(p316-317) p316-317 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  新しく開削した道路が…(p354-355) p354-355 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 新開之路(p354-355) p354-355 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳
  大和国の畝火・香山・耳梨等の山の樹木を百姓が勝手に伐損している。それに対して、国の役人は咎めだてをせず、禁制していない。今後はこのようなことのないようにせよ。(p380-383) p380-383 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳 勅、大和国畝火・香山・耳梨等山、百姓任意伐損、国吏寛容、不加禁制、自今以後、莫令更然。(p380-383) p380-383 CiNii 図書 - 日本後紀 : 全現代語訳