農業生産技術と国際協力2022


このページは、受講生のレポートを共有することにより、講義を単に受けっぱなしにせず、自分の考えを主体的に表現し、自分とは異なる視点もあることに気づくことで、より深みのある講義にすることを目的に作成しています。

10/13のレポート課題

ARDECの記事「農業農村開発の技術を考える」を読んで、その重要なポイントをITC-LMSに提出せよ。

  1. 「農業農村開発の技術」という言葉の定義について。「農業農村開発」とは、農業開発と農村開発を単につなげた言葉である。また「技術」とは、手段そのもので「工学」のような学問的な意味は含まれていない。これらのことから「農業農村開発の技術」は「農業及び農村を開発するための手段」つまり「農村に住む人々の生活に役立つような手段」だと定義することができる。
     その技術を導入する時において、「文明」として普遍的なものを導入しようとしてもその技術が根付くことはほとんどない。その地域特有の「文化」を見極め、農業農村で生活する人々の本音を正しく把握することによって技術の浸透・定着へとつながっていく。
     その見極めにおいて重要なことはその土地の歴史(変遷)と現状を把握することである。対象国には既存の技術がありその上に社会が成り立っている。また、その技術を導入した経緯も必ずある。アンケート調査を少しするのではなく、事前にある程度その土地に関する知識を把握しておくこと、また現地に入り込み地元の方々と会話を行うことを通してきちんと実情を知ることによって少しずつ課題が浮き彫りになってくるように感じる。課題がわかったとしてもそこから一方的に技術を導入してしまうと、かつての日本のように環境破壊や社会の混乱などの悪い影響を与えてしまう可能性がある。また、コストも重要な要素になってくる。有限な時間・お金の中で、スピード感を持って取り組んでいく必要もある。何から導入していくのか、これまでの経験と現地の方の声を照らし合わせながら慎重にかつ迅速に技術を導入していく力が求められるように感じる。
    現場の声に耳を傾け、解決すべき正しい課題を設定し、その課題を解決する手段を提供し、現場の方々と共に動き出すことは、農業農村開発において不可欠なものである。しかしこれが日本においても忘れ去られているように感じる。特に近年では「情報の可視化・DX」などと謳って様々な技術が開発されサービスが展開されているが、なかなか広まっていない。その理由は、先ほど挙げた中の「現場の声に耳を傾ける」ことが足りていないためであると考える。コンサルタントが増え、「このようなことに困っているのだろう」と勝手に考えてトップダウンで技術を導入しようとしていることが多々ある。しかし現場には全く響いていない。その中でタチが悪いのが、コンサルタントが行っていることは一見魅力的に見えてしまうことである。一つ二つのデータを取ってきて、自分の都合のいいようにまとめ上げ、うまくグラフを使って結果を出したかのようにアピールをする。それを見て外野が良い取り組みだと思い投資を続けてしまうと、一人歩きしてしまい現場の人々が完全に取り残されてしまう。最近の農業農村開発の取り組みや現場の方の意見を聞くと、その考え方の違いにとても驚かされる。
    農家の方々の根本的な考え方は「自分が稼げるかどうか、楽できるかどうか」だと思われる。それに対して、新しく導入する複雑なシステムを説明されたとしても何も響かない。現状を見極め、段階的に支援をしていくことが一番重要である。AppleやGoogleのようにそのシステム・サービスが当たって一気に広まるみたいなことは滅多にないし、楽に技術導入していく方法はないと思う。地道にやるべきことを取り組み続けることによって、少しずつであるが状況は変わっていく。

  2. 『農業農村開発の技術を考える』を読んで重要だと思った部分を抜き出し、以下にその所感を述べたい。

    まず、私が最も重要で、興味をひいたのは
    >> 発展途上国における農業農村開発を考えるとき、日本の技術者は日本における農業の歴史を踏まえたうえで、技術の導入と普及を図る必要がある。
    の一文である。たしかに、日本の農業の発展の歴史と、耕作放棄地が増え続ける現在の盛衰を考えると、どのような順番で途上国に農業農村開発を行うべきかを考慮するのは、日本の農業における諸問題を引き起こさないために重要であろう。しかしながら、十数年後の途上国の農業を考えると、リープフロッグ現象が起き、先進国に住む我々が想像もつかないような農業技術の向上や発展が起きてもおかしくはないと考える。その際に大切なのは、(日本の)歴史を踏まえたうえで、技術の導入と普及を図ることに加えて、先進国とっても経験したことのない新しい技術に対して、途上国の人々と協働して、どのような順番で農業農村開発を行うべきかを一緒に考え、決めることだ。

    >> 地元の農協職員で兼業農家をしていた兄貴には「農業の現実は違うんだ」
    強く共感した一文である。実は農家の方から「農業の現実は違うんだ」と(キレ気味で)全く同じフレーズで言われてしまったことがある。農業のDX化に興味がある私は、農家の担い手不足や耕作放棄地の増加などの課題に対して、繁忙期の農作業を助け合う「結(ゆい)」の文化に興味を持った。そこで、都市と農村との交流によって、新たな結の仕組みを創造したいと考え、長野県茅野市の協力を得て「未来型ゆい」というプロジェクトを立ち上げた。実際に、今年度は東大大学院と慶応大、地元の諏訪理科大の学生グループを作り、キクを生産する農家さんの畑で農業体験に取り組み、効率的に定植するため、小型無人機ドローンの活用も実践した。地元紙に取り上げられた記事を添付したので、よろしければぜひご覧いただきたい。当初はこのように順調に進んでいたものの、だんだんと農家さんは即戦力になる「労働力」を求めるようになり、私たちは「フィールド研究・実証実験ためのカウンターパート」としてお互いをとらえるようになっていき、認識にズレが生まれてきた。繁忙期に向けて刻々と忙しさが増すカウンターパート農家さんを前に、そのズレを修正する時間もなかった。ズレがある状態では、農業体験に赴くことはできない。悪循環に陥った結果、キク栽培の最繁忙期である夏に、私たちはカウンターパート農家さんが期待する「結」はできなかった。そのときに、「農業の現実は違うんだ」と言われてしまった。続けて、「東大やらと言っているが、農業をなめるな。」と電話越しに言われた言葉はいまでも脳裏に焼き付いている。目の前の農業生産量で生計がかかる農家に対して、私たちは研究や実証などはいくら失敗しても生計が脅かされることはない。立場の違いを乗り越えて、同じ方向から農業の未来について探求することの難しさに直面した瞬間だった。

    どのようにしてこの課題を乗り越えたら良いのか、いまだにわからない。10月26日に茅野へ足を運び、今後について話す手はずとなっている。「農業の現実は違うんだ」との一文を読んで、私はこれを溝口先生に共有せずにはいられなかった。

    <参考資料>

    東大院生らが「結」の文化に着目 茅野市のキク農家で農業体験(2022年5月31日、信濃毎日新)
    https://drive.google.com/file/d/1UCFisvbolOxokm3Uu_Zr5asHhLHreEdE/view?usp=sharing
    都市部の学生か゛未来型「結」追求 キク農家か゛協力 ?(2022年8月13日、長野日報)
    https://drive.google.com/file/d/1ncD1U4UwsSCUyKweBcKn1Dp7fpnC9wDV/view?usp=sharing


  3. 1) 農業農村開発の技術の定義付け
    農業農村開発とは、農業開発と農村開発をつなげた言葉であり、両者の複合的な意味を持っている。便宜上、開発を「人々の生活を改善させること」とすると、農業農村開発とは「農業を営む人々、および農村に住む人々の生活を改善させること」と定義することができる。
    また、技術とは「科学・知識を実際の人間の生活に応用させる手段」と定義することができる。
    これらを組み合わせると、農業農村開発の技術とは「農業を営む人々、あるいは農村に住む人々の生活を向上させる手段」と定義することができる。

    2)文化と文明
    農業農村開発の技術が、農業農村社会の人々の役に立つためには、住民の本音としてのニーズを理解する必要がある。
    農業農村社会に住む人々の本音を理解するにあたって、普遍的なものである文明と普遍的でないものである文化との違いに注意深くなること重要である。我々も用いるような一般的な技術はそのままの状態において、文明レベルでは農業農村社会に導入可能であるが、文化レベルではニーズの特殊性から導入不可能である。
    そのため、農業農村社会の人々の役に立つ手段を提案するためには、農業農村社会の文化を理解することで、現地の本音としてニーズを把握し、適した技術を導入することが不可欠である。

    3)本音(ニーズ)を把握するためのヒントと技術導入の心構え
    農業農村開発における現地住民のニーズを把握するためには、現地の状況・コンテキストを正しく理解することが重要である。そのため、今の日本で用いている技術をそのまま適用することは良くない影響をもたらすことが予想される。しかしながら、現地住民のニーズを理解するうえで、日本の経験が役に立たないというわけではない。
    歴史的な経緯を踏まえた上で、日本の農業農村開発における技術・経験の農業農村開発への適用可能性を探ることで、よい開発ができるだろう。
    具体的には、農業農村開発の技術について、1.普及の順番と2.普及の速度に注意を払う必要がある。
    これらを正しく行うことによって、現地のニーズとミスマッチした技術の導入や、受け入れるキャパシティのない農村への技術導入、急速な技術導入による社会/環境バランスへの悪影響を未然に防ぐことができる。
    近年の農業農村開発においては、リモートセンシングや熱カメラ、ICTなどの先端技術利用が盛んであり、これらは低コストの技術導入によって農業システム全体を効率化させる。ただし、これらの技術も対象とする地元の農業農村の社会的ニーズを見極めて導入するか否か判断するべきである。

    4)農業農村開発の技術者に求められる素養
    以上の議論から、農業農村開発の技術者には、現地の農業農村社会の本音のニーズと、農業農村開発に関わる多様な技術の両方をしっている必要がある。
    そのような人材をどのように育成していくかは、農学国際分野の教育の重要課題である。

  4.  農業農村開発において大事なことは、農業農村社会の本音を知り、農業や農村に関わる人々の生活に役立つ新旧様々な技術から適用可能な技術を取捨選択しながら普及させていくことである。
     農業農村開発の技術者はまず、農業農村の人々の本音と建て前が入り混じった声に耳を傾け、解決すべき正しい課題を設定する必要がある。文化や環境、社会のバランスを保ちながら、生活にゆとりをもたらそうとするならば、各地域の風土や歴史などに根差した生活パターンを知り、現状を正しく分析し、技術を普及させる順番にまで注意を払わなければならない。
     汲み取った本音から、相応しい技術とそれを普及させる順序を導き出すこともまた重要である。最新技術を導入することが必ずしも適切だとは限らず、社会的ニーズによってはローテクとハイテクを組み合わせることも重要となる。対象国に新たな技術を導入することで農村社会はどう変貌するのか、それは本当に良いことなのか、という畏怖の念を忘れることなく、慎重に検討し準備していく必要がある。
     農業農村開発の技術は、生産効率を上げ、肉体的な負担を軽減する反面、その地域の文化や環境を破壊する可能性をもっている。そのため、技術者は現場の本音に耳を傾け、農学全分野の最低限の技術に通じていなければならない。

  5. 私が記事を読んで重要であると感じた点は3点ある。まず1点目に、「農業農村開発の技術を導入する際には、対象となる地域・人々の本音を知る必要がある」という点である。先生は記事の中で「農業農村で生活する人々の本音を正しく把握するためには、文化まで踏み込んで理解する必要がある」と述べられている。すなわち、農業農村技術普及の目的は「現場のニーズに即した技術の導入によって、対象地域の生活者の役に立つ」ことであるため、それを達成するにはまず現場の真のニーズを汲み取る必要性があるのである。したがって技術者は常に「新技術の移転によって農村にはどのような変化がもたらされるのか、また、農村の生活は本当に良くなるのか」を考える必要があると感じる。
    2点目に、「開発途上国における農業農村開発を考える際、日本の技術者は日本における農業の歴史を踏まえたうえで、技術の導入と普及を図る必要がある」という点である。例えば、日本では急速な工業化により公害問題が深刻化した歴史がある。日本が途上国に対して技術移転する際、このような歴史を知らなければ途上国においても同様の問題を引き起こす可能性が十分にある。日本での成功・失敗経験の両者を認識しておくことで、途上国において起こるであろう問題を未然に防ぎ、適切な技術を移転することができると考える。3点目に、「技術導入における適切な速度を保つこと、すなわち途上国の既存の技術を活かした技術移転をする必要がある」ということである。先生は記事の中で、「対象国には、既存の技術がある。その技術に立脚して、社会が成り立っている。そこに新技術を導入することで何が起こり得るのか、技術者は現場の本音に耳を傾け、用意周到に技術の導入方法を準備する必要がある。」と述べている。ここで1点目の重要ポイントでも述べた「対象地域の人々の本音の理解」はもちろん大切である。加えて、現地の人たちを主人公として、あくまで開発側(=技術移転をする側)はそのサポートをする立場であるということを念頭に置いておくことが重要であると感じた。
    以上3点の示唆は、私の研究にも当てはまると感じている。特に1点目の「対象となる地域・人々の本音を知る必要性」は含蓄に富むものであった。私の専門は計量経済学であるため、アンケート等によって得られたデータを変数として利用するが、本来であればこれらのデータは、人々の本音が反映されているのかどうかまで深く理解しなくてはならない。しかしアンケート調査で人々の本音を深く反映させることは難しいため、せめて「研究による結果・成果が人々にどのような影響を与えうるのか」といった目的部分を常に考えることにする。また、今後フィールドワークや開発援助に直接かかわる機会があったら、表面的な調査をしてデータを得るのではなく、どうしたら人々の本音を聞き出し、真のニーズを汲み取ることができるのかといったことを意識していく必要がある。
  6.  この記事を読んで、「細分化されてしまった農学全分野の最低限の技術に通じていなければならない」という点が重要だと考えた。
     溝口先生の故郷農家が「何でも屋さんだった」と形容されるように、アダムスミスの指摘した工業分野における分業は、農業分野においてそれほど進まなかった。田植えが予定より早く終了したから、今年は早めに収穫を始めよう、といったことができないように、季節への依存が強い農業は、分業専業との相性が悪いからだ。しかし、技術と制度の発展によって。何でも屋は農協が担うようになり、農家もとうとう専業に変貌した。
     農学に限らず様々な分野で学問の細分化が問題視され、組織再編などで解決されようとしているが、農業分野における細分化は他の分野と比較して解決が難しいと考える。なぜなら、農業は食糧生産の基盤であり、効率良く食糧生産を続けないと賄えないほど人間が増えたからである。当然、効率の良い生産とは十分に分業・専業化された農業であり、このことが細分化された農学分野の統合を難しくするため、この点は検討すべき重要な点であると考える。
     個人的に重要だと考えた点は、6章の「農業農村開発の先端技術利用と通信インフラ整備」である。農業はある種インフラであるため、他の業界よりもICT技術の安全性や堅牢性が求められたり、機械を多用するため、IoTやそこから取得したデータの活用に大きなチャンスがあったりすると言った特徴があると考える。この2点から、私は農業の先端技術利用、特に通信インフラ整備に強い関心があるため、個人的に6章の指摘は重要であると考えた。「世界の農業農村に、情報インフラとして高速通信網が確保できれば」というところが特に、今後の農業生産技術に期待を膨らますことができる点だと思う。
     以上の、細分化した農学の統合の難しさ、農村の情報インフラの2点が特に重要だと考えた。

  7. 1)技術も工学も科学(知識)を応用する点では共通しているが、技術は手段そのものであり、工学は研究する学問に特化している。したがって、「農業農村開発の技術」は農業および農村を開発するための手段と定義できる。

    ここで重要だと考えたのは、「農業農村開発の技術」はあくまでも農業及び農村を開発するための手段であり、目的ではない点である。
    理系の学問は研究分野を細分化し、特化しすぎたあまり、生み出された技術が本来の“開発”の目的に沿わない例があるのではないかと考える。例えば、ラウンドアップに代表されるようなネオニコチノイド系農薬は研究室内での実験においては効果を見せ、農業の開発に寄与すると考えられていた。しかし、実際に使われている現場では生物多様性への影響や、周辺の水質や土壌などの環境変化など、その技術が果たしてその地域の開発に貢献しているのか、貢献していたとしてもその弊害が考慮されているのか、疑問符が残る結果は数多くある。SDGsが議論される今、必要なことは新しい技術ではなく、技術そのものがどのように生み出されるのか今一度見直し、手段が目的化しないようにすることではないだろうか。つまり、技術は「手段」でありながらも、技術そのものの発展ばかりに視点がいき、技術の発展が「目的」となってしまっているのではないかと考える。技術そのもののみならず、その技術が実際どのようにその対象地域に影響を与えうるか、また人々はその技術をどのように活用するのかまで考慮して、工学は発展していくべきではないだろうか。

    2)つまり、技術は文明としては農業農村社会に導入できても、文化レベルでは導入できない。農業農村で生活する人々の本音を正しく把握するためには、文化まで踏み込んで理解する必要がある。単なるアンケート調査では、本音は分かりようがない。こうした異なる地域社会に生活する人々の本音を、私たちは、どのように把握したらよいのであろうか。

    この一文は国際開発・協力における社会科学の意義を説明しているのではないだろうか。農業農村開発において、直接的に生活の利便性を高める技術を研究するのではない、社会科学の意義はこれまで疑問視されてきた。特に、文化人類学のような特定の地域での長期的なフィールドワークに基づく質的研究は、一つの村を調べて何になるのか、というような問いに代表されるように批判がされてきた。しかしながら、ここで示されているように、文明としての技術を農村社会に導入したところで、文化レベルでは導入できない。すなわち、技術のみでは“開発”は行えないのである。また、これまで社会科学の分野で一般とされてきた統計学的研究も、多くのデータを集積することができ研究の意義がありそうにも考えられるが、その単なるアンケート調査結果が異なる地域社会に生活する人々の本音を表しているかどうかは不明瞭である。そのため、フィールドワークに基づいた緻密な研究の意義、農業・農村開発における社会科学の意義が見出される。

    3)しかし、技術の普及にはある程度の時間が必要である。急速な技術の導入は環境の破壊をもたらし、社会の混乱を招くことになる。そのバランスが難しい。日本では、戦後の高度成長期における急激な工業化が公害問題を招いた。

    これからの国際協力における日本の役割は「失敗経験」の輸出があるのではないか。日本からの開発というと、工業国である日本の優れた技術を輸出し、開発「途上国」の発展を助けると考えられがちである。しかし、実際には日本が今現状において“先進国”と呼べる現状であるかは疑問がある。バランスの欠いた開発政策により、公害問題や地方衰退など多くの課題を経験し、今現状もそういった社会課題を抱えている日本において、技術のみを切り出し、先進国として他国を開発するのは無理な話だと考える。実際に今日本が抱える現状も含め、他国にできる最も重要なことは日本が失敗した開発の経験を伝えていくことである。技術が世界的に一律で発展し、基本的なインフラ整備が整い始めた今、日本は課題先進国、そして失敗を経験した国として、開発と自然環境、そして社会とのバランスのあり方を伝えていくべきである。


    4)農業農村開発の技術者は、対象とする「農業農村社会の本音」と「適用可能な技術」との両方を知っている必要がある。(中略)では、そうした技術者をどのように育成したら良いのであろうか─これは難しい問題である。

    この問題の解決の一つが文理融合の教育である。ご存知の通り私が所属する新領域国際協力専攻では、文系、理系のどちらの科目も履修が可能であり、異なる専門性を持つものが一つの教室で一緒になり教育を受ける。以前履修した農業政策の授業では政治学や経済学を専門で学ぶものから、土木工学や生物学を専門で学ぶものが混ざっていた。そういった授業では議論は双方にとって有益であり、同様の専門家同士では出てこない意見をたくさん聞くことができた。
    また、一つの案は学生へのフィールドワークの必須化である。私自身修士研究では宮古島の地下水ガバナンスを論じており、昨年から3回宮古島に訪れ、実地調査を行った。現地に行ってみると、文献には載っていない情報や、見たことも聞いたこともない話を聞くことができ、非常に論文執筆に役立った。また最も重要なことは実際にその土地で生活することにより、その土地の人の視点に立って物事を見ることができるようになることだ。論文執筆の過程で、現地調査が必要ではない場合も、プログラムの中にフィールドワークを組み込むことにより、農村社会の本音、適用可能な技術の両方を知っている技術者を育成することができるだろう。

  8. 「農業農村開発の技術」とは、「農業の開発および農村の開発をするため、自然に手を加えることを通して開発の目的を達成するための方策」と定義できる。こうした技術を実際の農業農村開発の実践の場に落とし込んでいこうとするときに必要なのは、農村に生きる人々の本音を把握することである。
    司馬遼太郎の定義を借りれば、技術は文明の中に植え付けることはできても、文化の中に入れ込むことはできない。なぜならば、文化とは特定の集団内でのみ抱かれているコードであり、通じる規範だからである。そのため、ある特定の集団において農業農村開発を、技術を介して行おうとするとき、そこに住む集団の文化から把捉し、そこに息づく人々の本音を拾い上げてからでなければ意味がない。しかし、その「農業農村社会の本音」だけを知っていればいいのかと言えばそうではなくて、農業農村開発に従事する人間は「適用可能な技術」をも知っている必要がある。
    結やもやいが残っていた時代、手作業で農業をする必要があった時代、そこに従事している人々は現在の農業従事者に求められる「全てに通じている」力を自然と身に着けていた。技術が発達したことで農作業の労苦は各段に軽減されたが、一方で様々な領域の細分化を招いた。今後農業農村開発に従事する人材は、こうした細分化された知を繋ぎ合わせた上で、現地に根付いた開発を行う必要がある。

  9.  農業技術の国際協力をおこなう上で、文化と文明の違いという点が重要なポイントだと思ったので、以下書き記すこととする。文化はある限られた社会集団の中にのみ機能するものである一方、文明は受け入れる側の姿勢によっては広く普遍的に受容されうるという視点は、やはり非常に面白いものだと改めて感じた。
     ところで、過度に工業化していく近年の資本主義システムは、もともとはキリスト教的価値観から生まれている 。宗教は、基本的に限られた社会集団の中で機能する文化的要素が強いものであるため、それに立脚している資本主義も文化的要素が強いものということになる。すると、本来ある限られた社会集団の中でのみ機能するはずの資本主義システムが、グローバル化の名の下において世界中に波及し、各々の土地の文化とぶつかったことで、近年の「歪み」を生み出しているのかもしれない。そう考えてみると、一様に資本主義システムなどを世界中に波及させていくことが、その社会集団にとって幸せなものになるとは限らないということになる。(もっとも、資本主義システムの導入でお金持ちになることはできるかもしれないが。)
     少し話が飛躍しすぎたので農業技術の話に戻す。農業とはその土地に住む人々の価値観や暮らし方に大きな影響を持っているものであるため、他の分野よりも文化と文化の対立が激しくなる可能性が高い。するとこちらの善意があちらの悪意になる可能性がある。だからこそ、本文にあったように、その土地や社会集団の文化を理解した上で、技術協力をする必要があるのだろう。そしてその時に、社会学者がよくおこなうアンケート調査や文献調査は大した役には立たない。なぜなら、そこに住む人々にとって文化とは意識するものではなく、無意識にしかし確かに自分の中に存在しているものであるため、アンケート調査や文献調査では発露することがないからである。したがって農業技術を自分の文化圏の外に持っていこうとする場合、相手国の文化を自分で体感して会得した上で、必要である場合のみおこなうのが望ましい、と文献を読みながら考えていた。
     さらに見方を変えると、これは身近な例でもおこっていることかもしれない。すなわち、私のような田舎の農家の長男坊の価値観と、都会のサラリーマンの子供たち(春に田植えの世界が広がり秋に稲刈りの世界が広がる、という日本の当たり前の原風景を共有していない人たち)の価値観とでは、育ってきた「文化」が異なるため、互いのそれを簡単に受容することはできないのかもしれない。とりわけ近年、日本の農村は急速に失われているから、かつての日本人が大事にしてきた「文化」というのも、それに伴って急速に失われてきていると考えることもできるのかもしれない。
     話が大きくなりすぎたが、「文化」と密接に関連した農学を研究する者として、常に自分の「文化」と相手の「文化」を考え、適切な判断をしていかなければならない。横井時敬先生の言葉を借りると、「農学栄えて、農業滅ぶ」といった世の中になってはならない。我々世代が頑張ることで、たとえ高度な文明を受容することがあっても、我々が大事にしてきた文化は次世代に維持し、互いの「文化」を尊重しあえるようにしていかねばならない、と改めて思った。この理解が、何でもかんでも「国際化」を推進している現代にとって、むしろより重要なことなのではないかと、本文を読みながら改めて感じたと言える。

  10. この記事の重要な点は「技術は文明としては農業農村社会に導入できても、文化レベルでは導入できない」という点だと考える。この意見は農業農村開発に携わりたいと考える私にとって肝に銘じておきたい言葉だ。
     はじめに私は東京で生まれ育った人間であることを明言したい。高校生までの私にとって、農業とは全く知らない分野であった。農業に対し、無知だった私は大学受験で東京農業大学を受験し、国際農業開発学科に合格、そして入学した。圃場という言葉も田植えのやり方も、地下足袋の履き方も何も知らなかった私は学部4年間農作業にどっぷりはまる生活を送るのだが、本レポートとは全く関係のない話であるため、割愛する。
     東京農業大学での4年間、私はとにかくフィールドに出た。日本と海外、両方の農村に足を運び、特に静岡県島田市の山間地域には毎月通い、現在も交流は続いている。東京出身の部外者である私は足しげく農村に通い、様々な共同作業を農家の方と一緒に行ってきたが、私はあくまで部外者であると常に感じてきた。特に先日、島田市の山間部は台風15号によって甚大な被害を被り、現在も県道は陥落したため通行止めが続いている緊急事態であるにも関わらず部外者である私は、同地域を東京以上に故郷だと思っているにも関わらず何もできない歯がゆさを感じた。そのため、冒頭で触れた引用文では技術は文化レベルで導入できないとあるが、それは外部からの人間も同じであるように感じた。特に現在、タイの農村に通いアンケート調査を実施している私にとって、単なるアンケート調査で本音は分からないといった記述は非常に耳が痛かった。農村社会の本音を知り、適用可能な技術を身に着けた人材になりたいと、学部の時から思っていたが、農業農村について学び始めて、まだ6年目の若輩者である私にとって、この記事は読めば読むほど、自分の経験値の無さや専門性の浅さ、視野の狭さなど弱点をつかれているような気がした。
     大学の4年間では栽培学から作物保護学、農業経済、農村社会学と農業に対する基礎的な知識を幅広く学んだ。だからといって、繰り返しにはなるが、『農業農村開発の技術者は、対象とする「農業農村社会の本音」と「適用可能な技術」との両方を知っている必要がある。』と記事に記述があるような人材と私はほど遠い。しかし、農業農村開発の技術者とは一体何を学んだ人を指すのだろうか。農業農村開発において主人公は農家である。そして、農家は百姓とも呼ばれ、知り合いの農家は百の仕事をするから百姓だと語った。百の仕事を毎日こなす人に仕事を全て教えられるためには農村の全てを知らなければならない。しかし、現代社会において都市部で生まれる人口の方が多く、技術者の多くは農村で過ごした時間より都市で過ごした時間の方が長いのではないだろうか。そのような技術者が農家と同じように百の仕事を1人で身に着けられるとは到底思えない。開発援助において農業農村開発は1人の専門家のみで行われることがないのはこれが理由であろう。開発援助プロジェクトは何人もの専門家やスタッフが集まって現地パートナーと協力して行われる。そのプロジェクト成功の是非は問わないが、プロジェクトチームという集団として、「農業農村社会の本音」と「適用可能な技術」の両方を知っていれば良いのではないだろうか。そして、集団が一丸となってプロジェクトの成功に努めるべきであり、「チームワーク」もまた必要な技術だと考える。
     以上の点から、私は農業農村開発の技術は「農業農村社会の本音を知る技術(社会学や人類学等を通じて)」、「適用可能な技術(栽培学、農業工学、先端技術等)」の二つをとりまとめ、集団として行動できる「チームワーク」であると考える。

農業生産技術と国際協力2022

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Update by mizo (2022.11.10)